〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/06/01 (水) 女 鷲 の 城 (九)

家康に問いかけられて、万千代の光る眼に、蝋燭ろうそく の灯がゆらゆらとゆれていった。
「わしが、氏真は今では叔父御の仇ではないか。三河の殿に降参して、家の安泰を計るがよい ── そういうと、叔母御は、はじめ笑いました」
「何と言って笑ったのだ」
「こなたはまだ子供ゆえ大人の意地はわからぬと・・・・それもだんだん責めてゆくと、こんどは涙をうかべられ、この叔母が降参すると三河の殿がお笑いなさると・・・・」
気がつくと万千代の双眼からはポトポトと涙がしたたり出している。
「三河の殿! 叔母御は、殿が好きだったと洩らしました」
「そうか、そう言ったか・・・・」
「はい、はじめ義元公のお声がかりで輿入れできると思うていた。そらが出来なくなったのが、興るものと滅ぶるものの運のわか れ路。同じ雨でも春の雨と霙は違うと申されました」
「うむ」
「霙はきびしいほどよい。もしここで三河の殿に降伏し、なま ぬるい雨であったと思われようより、いっそ冷たい雨で通そう。その方が、三河の殿のお心に残るであろうと」
「もうよい!」
家康はあわてて、万千代の言葉をさえぎった。聞くに耐えなくなったのだ。
(そうだった・・・・あの後家は吉良の姫であった頃から、そうして強さをきびしく持った女子であった・・・・)
その女子に降伏をすすめた自分の残酷さが、きりきりと胸を噛んで来る。
良人の存生中にも、おそらく古い恋の傷あとは彼女を苦しめたに違いない。その良人が死んでしまった今となって、もし家康に降ったとあっては、それこそ苦しさは増すばかりであろう。
「叔母御は・・・・」 と、また思い出したように万千代が言った。
「叔父御が生きていたら、おそらく、とうに三河の殿を城に入れたに違いないのに、それのできないのが苦しいと・・・・」
「わかっている、もう言うな」
「殿! この万千代が奉公はじめに、足軽百人ほどお貸し下され。何と言っても城を出ぬ叔母御ゆえ、この万千代の手で攻めてやりとうござりまする」
家康は答えなかった。
(そうするにも及ぶまい・・・・)
後家の心はもうわかった。ひっそりと城にこもっていると見せかけて次々に家臣を落とし、最後の自害してのける気に違いない。
(憎い女子だ ──) と、家康は思った。
降伏して家康の身辺に生きてゆくよりも、烈々の香気をのこして死んだ方がはるかに家康の心に残ることを知っている。おそらく家康は生涯後家を忘れることはできなくなろう。
「おや? 戻って来たような」
居眠りしていたと見えた作左がむっくりと顔をあげた。
「殿、本多平八郎が戻ったげにござりまする。お手討ちになされまするかな」
家康はそれにも答えなかった。
ゆらめく灯の下で、じっと眼を閉じたまま塑像そぞう のように動かない。
作左衛門はニタリと笑って、二人を残して外へ出ていった。
徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ