「なに、曳馬野の後家どのが・・・・」 と言いかけて、作左衛門は思わずポンと膝をうった。 「そうだった。万千代どのにとって、御前は叔母御
にあたっていた。そうか、そうであったか」 作左衛門はうなずきながら、改めて万千代を見直した。 はじめて、この姫街道
の井伊谷に陣をすすめ、正面きって曳馬野の城を攻めなかった家康の心が読めた。 (うかつであった・・・・) と、作左は思う。若き日の色恋に意地を立てて・・・・ただそれだけと思った自分が恥ずかしかった。 万千代の父、井伊直親もまた今川氏真の猜疑
に命をおとしている。いや、父だけではなくて、子の万千代の首にまで黄金を賭けていると言う噂だった。 家康はその万千代が、どこにかくまわれていたかも知っているのかも知れない。それを探し出して味方にすることは稲佐
、細江 、気賀
、井伊谷 、金指
一帯の民心を掴むことであった。 (殿の心はすでに遠江から遠く駿河へ動いている・・・・) それを知っていながら、作左衛門は、この地に氏真に追いつめられた名門の子の流浪しているのを忘れていた。 「そうか。おぬしは御前の甥御
であったか。わかった。会わせよう。こうおじゃれ」 作左は万千代を連れて、うしろの塗籠
の中に入っていった。 塗籠の中はすでに暗く、家康は二本の燭台を立てて、如雪斎にひかせた地図にしきりに朱を入れていた。 「殿、お待ちかねの城から使者が来たようでござりまする」 「なに使者が参ったか」 「はい、万千代どのこれへ」 言われて少年は臆する色もなく、つかつかと家康の前へ進んだ。家康はハッとしたような眼を見張った。 「おぬしが井伊谷の主であった直親どのの子息か」 「はい、万千代と申しまする。三河の殿!
なにとぞこの万千代に、殿へのご奉公をお許し下され」 「こなたは、今まで曳馬野の城に匿
われていたのであろうが」 「はい。匿われたり、追われたり、追われたり、匿われたりいたしました」 家康はじっと刺すように万千代を見つめながらうなずいた。いよいよはげしい氏真の猜疑の中では匿ったり他へ移したりは当然のことであろう。 家康は、万千代のうしろの闇に、駿府時代の吉良の姫の面差しをまざまざと思い浮かべた。 家康も好きであったが、姫もまた決してあの頃の竹千代を嫌ってはいなかった。 今川義元の姪に瀬名があり、その父の関口親永に、二人を結ぼうとする意志がなかったら、家康の妻は吉良の姫であったに違いない。 それは姫は飯尾豊前を良人とし、家康は瀬名を妻としているばかりか、今はその女性と敵味方であった。 家康が、最近召し抱えた伊賀者のうちから特に心利いた者を、密かに後家のもとへつかわし、後家に降伏をすすめた心は複雑だったが、それにしても、あまりにみすぼらしい賦におちぬ使者の風体だった。
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