〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/30 (月) 双 鶴 図 (十二)

家康は薙刀を手にして突っ立ったまま、
(久三郎め、どこぞへ逐電ちくでん してくれればいいが)
と、ふと思った。
織田家へ対しての血気の反発。それは久三郎一人のことではなった。硬骨こうこつ 元気な家臣たちは家康の隠忍いんにん を信長の下風に立つものとして喜ばない。人事じんじ にも季節と同じ流れがある。その勢いには勝てないものと説明してもなかなか納得しなかった。
久三郎はいわばそうした気風の一つの突起とつき に過ぎないのだ。
家康は入側へ向き直った。入って来たら大喝だいかつ して走らせ、でき得れば斬りたくなかった。
夜のちょう が一羽どこからか舞い込んで、灯のまわりをゆるくまわって離れない。それが久三郎に思えて、ふと舌打ちしたときに、
「殿!」
と、うしろの庭木戸のあたりで声がかかった。家康はハッとして振り返った。
「お居間を血で汚しては恐れ多い。鈴木久三郎、お手討は覚悟の上、庭先から参上いたしました」
「たわけめ!」
家康は肩をふるわしてどなりつけた。その一喝で消え失せさせたかったのだが、久三郎は逆に脇差までガラリと地べたへ抛り出して、のこのこと縁先へやって来る。
そうなると再び家康の怒りは胸へよみがえった。
「うぬッ、なんで予の言葉にそむいたのだ」
久三郎は素腰の帯びに手をかけてゆっくりと空を仰いだ。空はすでに星でいっぱいだった。
「なぜ黙っている。悔いはないのかッ」
「ありませぬ」 と久三郎は え返した。
「この久三郎は、殿のためにやったのだ。相手の戯れが小癪こしゃく ゆえ、こちらも戯れ返してやったのだ」
「その戯れが両家の友誼ゆうぎ にひびを入れると考えなかったのか。たわけめッ」
「これはおかしな仰せをうけたまわりもの、殿と織田どのはご兄弟の交わり、先方が戯れるゆえ、戯れ返したとて何のぎびになりましょう」
「あの大鯉がそれほど気にかかる戯れか、好意だけを素直にうける雅量がりょう がそちには持てないのか」
「殿は織田家を恐れてござりまする。それゆえ、ちと考え落ちがある」
「なに、この家康に考えの足りぬふし があると」
「いかにも。鯉は生きものでござりまする。ましてあお大鯉、悠々とした大河にあればとにかく、小さな泉水の中ではいつか鬱屈うっくつ して死ぬ時がござりましょう。そのとき殿は家臣の不都合を言い立てて、お叱りなさる。しかも殿! 死んだ鯉は喰べられませぬ。そのようなものを贈る織田どのの心根が憎いゆえ、せっかく生きているうちに頂戴ちょうだい して鯉の冥利みょうり をつくさせました。いや、この久三郎も笑ってお手討になれまする。鯉めも、死所を得たとわが腹の中で喜んでおりますれば」
そういうと久三郎は、くつぬぎの向こうに坐って、ぐっと首さしのべた。
「うぬッ!」勝手なひとり合点、もう許せぬ」
家康は庭下駄をつっかけると、久三郎の後ろへ廻って、
「弥七!水」
と、叫んだ。内藤弥七郎に止めさせようという腹であったが、弥七郎は 「ははッ」 と答えて手洗ちょうず ばち柄杓ひしゃく の水を、家康の薙刀に注いでいった。

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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