家康は薙刀を手にして突っ立ったまま、 (久三郎め、どこぞへ逐電
してくれればいいが) と、ふと思った。 織田家へ対しての血気の反発。それは久三郎一人のことではなった。硬骨
元気な家臣たちは家康の隠忍
を信長の下風に立つものとして喜ばない。人事
にも季節と同じ流れがある。その勢いには勝てないものと説明してもなかなか納得しなかった。 久三郎はいわばそうした気風の一つの突起
に過ぎないのだ。 家康は入側へ向き直った。入って来たら大喝
して走らせ、でき得れば斬りたくなかった。 夜の蝶
が一羽どこからか舞い込んで、灯のまわりをゆるくまわって離れない。それが久三郎に思えて、ふと舌打ちしたときに、 「殿!」 と、うしろの庭木戸のあたりで声がかかった。家康はハッとして振り返った。 「お居間を血で汚しては恐れ多い。鈴木久三郎、お手討は覚悟の上、庭先から参上いたしました」 「たわけめ!」 家康は肩をふるわしてどなりつけた。その一喝で消え失せさせたかったのだが、久三郎は逆に脇差までガラリと地べたへ抛り出して、のこのこと縁先へやって来る。 そうなると再び家康の怒りは胸へよみがえった。 「うぬッ、なんで予の言葉にそむいたのだ」 久三郎は素腰の帯びに手をかけてゆっくりと空を仰いだ。空はすでに星でいっぱいだった。 「なぜ黙っている。悔いはないのかッ」 「ありませぬ」
と久三郎は吼 え返した。
「この久三郎は、殿のためにやったのだ。相手の戯れが小癪
ゆえ、こちらも戯れ返してやったのだ」 「その戯れが両家の友誼
にひびを入れると考えなかったのか。たわけめッ」 「これはおかしな仰せをうけたまわりもの、殿と織田どのはご兄弟の交わり、先方が戯れるゆえ、戯れ返したとて何のぎびになりましょう」 「あの大鯉がそれほど気にかかる戯れか、好意だけを素直にうける雅量
がそちには持てないのか」 「殿は織田家を恐れてござりまする。それゆえ、ちと考え落ちがある」 「なに、この家康に考えの足りぬ節
があると」 「いかにも。鯉は生きものでござりまする。ましてあお大鯉、悠々とした大河にあればとにかく、小さな泉水の中ではいつか鬱屈
して死ぬ時がござりましょう。そのとき殿は家臣の不都合を言い立てて、お叱りなさる。しかも殿! 死んだ鯉は喰べられませぬ。そのようなものを贈る織田どのの心根が憎いゆえ、せっかく生きているうちに頂戴
して鯉の冥利 をつくさせました。いや、この久三郎も笑ってお手討になれまする。鯉めも、死所を得たとわが腹の中で喜んでおりますれば」 そういうと久三郎は、くつぬぎの向こうに坐って、ぐっと首さしのべた。 「うぬッ!」勝手なひとり合点、もう許せぬ」 家康は庭下駄をつっかけると、久三郎の後ろへ廻って、 「弥七!水」 と、叫んだ。内藤弥七郎に止めさせようという腹であったが、弥七郎は
「ははッ」 と答えて手洗
鉢 の柄杓
の水を、家康の薙刀に注いでいった。 |