家康はじろりと弥七郎をにらみ、それから久三郎へ眼を移した。 久三郎はほんとうに死ぬ気でいるし。弥七郎はこれも家康の怒りを見て、その怒りを理由あることと認めて止めない顔であった。 わざわざ縁に灯を持ち出し、手もとを明るくして整然と控えている。 家康は汗を拭った。 こうなると家康自身で改めて考えてみなければならなくなる、わが生命を捨ててまで、一尾の鯉に反抗した鈴木久三郎
── 久三郎が生命を捨てなければならないほど、それは果たして大切なものを含んでいるのかどうかを。 「久三」 「はっ」 「戦場で生命を捨てるならばとにかく、鯉一尾のために死ぬ・・・・口惜しくないか?うぬは」 久三郎は再び眼を開いて家康を見上げた。済み切った心境のよくわかる静かな眼に変わっていた。 「殿!
戦場で死ぬのはやすい。が、ふだんの奉公に生命を賭けるは難
しいものと、われら父君に訓
えられている」 「それを聞いているのではない。鯉一尾のために斬られるのが奉公かと訊いているのだ」 これはしたり。過
ちならばとうに逃げているものを、ご奉公と思えばこそ、首さしのべておりまする」 「考えぬいた上でのこと、というのだな」 「久三郎が斬られなければ、いつか誰かが生命を落とす・・・・というのはしかし小さなこと。大切なことはその上にございまする」 「小賢しい。申して見よ。思うままを」 「恐ろしいと思う相手からの贈り物ならば、鯉一尾と家臣一人のねうちの計算もつかなくなる。そんな殿では大きな志はとげられませぬ。鯉を引き連れて戦がなりまするか。久三郎の死は殿にそれを想い出させる・・・・それだけで十分大切なご奉公と腹の虫が納得しておりまする。たとえば、いかなるご仁の下されものであろうと、器物は器物、鯉は鯉。人間以上のものではないとご分別下さりませ」 家康は薙刀を構えたまま、かすかに頬をゆがめて笑った。 「が、ソレトこれとは違う。久三は、殿がしてはならぬと口外なされたその命にそむいたことが消えませぬ。久三めをお斬りなされて、これからはうかつな命令をお出しなさらぬよう、ひとえに願わしゅう・・・・いざ、お斬りなされませ」 「弥七!」 と、家康は弥七郎を呼んで、 「斬るには及ばぬ。この薙刀をそれへ納めよ」 「はッ」 「久三」 「はいッ」 「予がわるかった。予が未熟だった。向後
、取り消さねばならぬような命令は出すまい。今日の取り消しは笑って済ませ」 久三郎は、ぱっととびさするようにして平伏した。 「たとえどなたの下され物でも鯉は鯉・・・・とはよく言った。これは信長どののご好意を素直に受ける気持ちの次に、すぐになければならぬ大切な心構え。予は未熟であったな。よい。これからは鯉は鯉として扱え」 そういうと家康はそのまま縁へ上がっていったが、久三郎はまだ地面に平伏したままだった。 星明りではその肩のゆれは見えない。が、泣いていて顔のあげられないのがよくわかった。
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