〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/30 (月) 双 鶴 図 (十一)

家康は自分の頬から血の気のひいて行くのがわかった。
かりにも信長が、自分にたとえ、婿にたとえて贈って来た鯉である。
その鯉を煮て、勝手かつて に喰い酔っていようとは・・・・
むろん誰かの指図であり、その裏には痛烈な風刺ふうし と諌言かんげん が含まれているのに違いない。それにしてもこの事がそのまま信長の耳に入ったら、信長と自分との友情に傷がつく。わざと事を構えた嫌がらせととるに違いないからである。
「金阿弥」
「はッ」
「台所人頭の天野又兵衛を呼んで来いッ」
「は・・・・?」
そのころになって、はじめて金阿弥は、家康の様子のただならなさに気がついた。あたふたと立って裾をふんでよろけながら退っていった。
「殿、お呼びでござりまするか。本日はまた」
「礼は早い。例の大鯉。誰が調理せぢぞ」
「はい、まずもって天下に珍しい大鯉、拙者生涯の想い出に庖丁ほうちょう を入れましてござりまする」
「おお、生涯の想い出になろうとも。して、そちに調理を命じたのは」
「殿ではござりませぬか」
「予であるかないかは後でわかる。誰ぞ泉水から鯉をあげた者があるであろう」
「はい。鈴木久三郎どのにござりまする。久三郎どのは殿よりお許しが出たと、ふんどし 一本で泉水へおどり込み、それはそれは勇ましい大格闘でござりました」
そう言ってから、声を落として。
「おのれ、織田尾張守め、いざ って眼にものみせんと・・・・」
「もうよい!」
家康はびしりと膝を扇子でたたいて、
「久三郎を呼べッ」
声と一緒にすっくと立った。
「すると・・・・久三郎どのは、殿のお許しもなく・・・・」
「よい。その方たちは、喰べた鯉を吐きもなるまい。みなには言うな。ただ久三郎に参れと言え」
「ははッ」
つと立って出て行くと、台所の唄声はぴたりとやんだ。
家康はきりきりッと歯をかみ鳴らし長押なげし薙刀なぎなた を取るとさや を払ってひとふり振った。小納戸の分際ぶんざい で、わざわざ大切にせよと言ったわが身の言葉に逆らう。久三郎の数十倍も考え抜いている家康への許しがたいあなど りであった。
内藤弥七郎が灯をささげて入って来て、びっくりして家康を見たが、家康はただあら い呼吸で暮れなずんだ庭を睨んでいる。
汗の玉と薙刀の刀身に、灯りがあやしく映っていた。
「弥七!」
「はい」
「久三郎めまだ来ぬ。早く呼んで参れ」
「久三郎をお手討ちになされますので」
「そうだ。今日という今日は腹に据えかねた。止めるとそちも同罪ぞ」
「はッ。呼んで参りまする」
弥七郎はようやく事態をのみこんで、足音をたてずに出て行った。

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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