家康は聞きとがめて手を鳴らした。 「お呼びでどざりまするか」 入側
に現れて、きちんと両手をつかえた小姓は内藤弥七朗だったが、みれば弥七郎の面にもほのぼのとした酔いが浮かんでいる。 「弥七、あの騒ぎは何事ぞ」 「はッ、婚礼のあと振る舞い、みなありがたく頂戴
いたしておりまする」 「なに、あと振る舞いじゃと・・・・?」 家康はいきなり叱る代わりに、探る眼になって声をおとした。 「誰の指図だ。誰が予から許しを得たと申したのだ」 「はッ、鈴木久三郎にござりまする」 「久三郎があと振る舞いせよと申したか?」 家康は首をかしげて考えた。あるいは自分もまた酔っていて、口外したことを忘れているのではないかと思ったのだ。 もともと家康は、家中側近からは度を越えた質素と解されているらしい。 つい婚礼の四、五日前にも、差し出された昼の飯椀の蓋を取ると、上にうすく麦が見えたが、中はぜんぜん白米だった。 家康は苦笑して台所人頭の天野又兵衛を呼んだ。 「又兵衛、そちたちは予が吝
で麦飯を食うていると思うか」 「なかなかもちましてそのような。ただ麦の混じりの少ないところが殿のお椀に入りましたものと存じまする」 「── それならばよいが、よく考えよ。今は天下に騒乱うちつづき、寝食の安らかならざる者、巷
にあふれている時じゃ。そうした時に、この家康ひとり口腹の欲を満たして済むと思うか。諸用を節して、一時も早く泰平の世を招くための代にする。よいか、無用な労わりは相ならぬぞ」 そういって叱りつけたばかりだけに、うかつな小言ははばかられた。 「そうか。久三郎が・・・・よし、金阿弥を呼んでみよ」 弥七郎は心得て同朋頭の金阿弥を呼びに立った。 台所の騒ぎはいよいよ大きくなり、みな、それぞれへ灯を入れるのまで忘れているらしい。 「これはこれは、お帰りでいらせられまするか。今日はまた思いがけないご酒下され、ありがとう存じました」 金阿弥の方は弥七朗以上に酔っていて、坊主頭がテラテラと赤くなっていた。 「金阿弥」 「ははッ」 「そちもえらく酔っているな」 「はい、それはもう・・・・何しろ織田の殿さまからわざわざ下されました赤部諸白
、風味と言い、味と言い、まことに申し分ございませぬので」 「織田どのの下された諸白の樽をあけたのか」 「はい。一同大喜びでござりまする。それに肴
がまためったに口に入らぬ木曽川の大鯉・・・・」 「待てッ金阿弥」 「はい」 「その大鯉とは、まさか・・・・織田どのから贈られた例の三尾のうちではあるまいな」 「いいえ、その三尾のうちの一尾にござりまする。いやはや、脂の乗り切った川鯉、得も言われぬ味わいにござりまする」 金阿弥はそういうと、ペロリと下唇をなめて平伏した。
|