「ほほう、生きた鯉を下されたか。それはそれは」 「はい。美濃、尾張をつらぬく木曾川に、運づよく生きつづけましたあらなる大勝鯉、その一は三河守さま、一は信康さま、あとの一は主君尾張守と思し召されて、末永く泉水にご賞翫
ありたい旨 の口上にござりました」 「それはそれは、何よりのご芳志。では、さっそく予も見せて貰おう」 家康は立ち上がってたらいのそばに歩み寄り、 「おお、これは見事な!
見事じゃの!」 そう言うと、信康と徳姫の頭を思わず軽く撫でながら、 「ああこれ久三郎
、このめでたい鯉を、さっそく泉水へはなしてやれ。そしてな、日々の世話は、間違いなく同朋頭
の金 阿弥
に申しつけよ。よいか、めでたい鯉じゃ。気をつけよ」 小納戸の鈴木久三郎をさし招いて命じた。 久三郎は 「はッ」 と答えてたらいに近づき、鯉を見やって思わずふっと顔をそらした。 おそらく岐阜の城で、濃姫が感じた不気味さと同じものをこの巨大な化物
から感じ取ったに違いない。 鯉が泉水へ放たれると、信康は徳姫の手をとって丹羽へ出て行き、しばらくしてその三尾が悠々と他の群小を従えて泳ぎ出すのを見きわめてから、いかにもホッとした表情で広間へ戻って来た。 婚礼はその夜つつがなく取り行われた。 運命のうてなに並べられた双つの鶴は、そちらもよい遊び相手を得た満足で、楽しげだった。 当分の二人の住居は築山御殿に近い東の丸があてられることになった。 家康はすでにその頃。自分の生涯をこの小城で終わろうとは思っていなかった。 信長は美濃を制してひそかに密勅の下るように画策
しだしている。彼もまたその信長と兄弟
の距離で雄飛を志さなければおくれを取ろう。いや、すでにその準備は着々と彼の腹中で整いだしている。書物目安奉行の如雪斎
に命じてあれこれと叙位任官のことを調べさせ、京の近衛
前久 、吉田
兼右 などへそれとなく進物
して斡旋を頼んであった。 叙位任官によって一土豪の地位を脱し、遠江を手に入れ、じょじょに駿河へ足をのばす・・・・そうなれば当然この城には信長の婿である信康をおくのが得策だった。 (信康の本丸へ入る日が、予の遠江を制し終わる日になるであろうが・・・・) そう思っているだけに、家康の徳姫を見る眼は違っていた。 家康は生母の於大の方や、義母の戸田御前には、わざわざ自分も同座して徳姫を引き合わせた。 佐久間右衛門信盛は面目をほどこして岐阜へ帰り、家中一統も婚礼気分からふたたび普段の表情に戻ったのは六月半ばであった。 その日家康は、久しぶりに菅生川の落ち合へ泳ぎに行った。 体を鍛えるには遊泳が第一と、夏季にはよく暇を見つけて泳ぎに行く家康だったが、その家康が思うさま体のゆるみを鍛え直して戻ってみると、本丸の台所で、時ならぬ人々の唄声が聞こえていた。 どれもこれもひどく食べ酔っただみ声と知って、家康の眉
はけわしくなった。 |