盃がはこばれた。 きらびやかに着かざった小姓たちが、信長から元康へ、元康から信長へと、銚子の酒を注いでいった。 岡崎で想像していたのとは反対にすべてが対等でいささかも勝利者の倣岸さは感じさせない。元康は信長がこわくなった。 (この手で接近されては、抜き差しならないことになる・・・・) むろん臣礼をとる気はなし、取れとも言わぬに違いない。それでいて、ぐっと肩に重みを感じるのは、立場は対等でも、激しい気性でぐいぐい押されそうな気がするからだった。 といって、いま元康の身辺に、信長をおいてどれだけ頼れる人物がいるというのだろう。 今川氏真にはすでに希望をなくしていた。 甲斐の武田、小田原の北条はともに今川氏の遺領をねらう虎であったし、近隣にはほとんど力になるほどの勢力はぜんぜんない。 「竹千代・・・・おれがひとさし舞ってみせる。こなたも何か肴をたれ」 酔いがまわると、信長は幼名で元康を呼んだ。 信長は立って得意の
「敦盛 」 の一節をきらびやかに舞いだした。 |
人間五十年 下天
のうちをくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか・・・・ |
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それはその謡
の内容とはおよそ違った感じであった。人生の侘びではなくて、あたりを払う活気なのである。 元康はこれも立ち上がって、ひとさし舞った。 |
それ西方は十万億土 遠く生まるる道ながら これも己身の弥陀の国 貴賎群衆の称名
の声 日々夜々の法の場・・・・ |
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声も手振りも信長のそれとは際立った違いであった。 信長の謡が一座の人々に肩をそびやかさせる活気を持っているとすれば、元康のそれは、神妙に坐り直させるものであった。 「やんや、やんや」 信長は上機嫌で大盃をかたむけた。信長の酒は酔いにつれて人に強いる癖をもっていた。 そのときも信長は一升一合入りの朱盃をぐっと乾して元康につきつけた。 「竹千代、兄弟の堅めの盃ぞ」 人々はひやりとして元康の顔色をうかがった。もしこれを拒むと、意地になって暴れ出す信長の気性を知っているからだった。 元康は微笑して朱盃を受け取った。 「よろこんで頂戴
・・・・」 いかにも自然に酒を注がせ、気負った様子もなくするすると一気にそれを啜
り込んだ。 信長はハハハハと甲高
く笑った。 彼は彼にないものを元康がみんな持っているのがたまらなく愉快であった。 「竹千代、明日は二人で童にもどって遊ぼうぞ。よいか、馬をならべて熱田へいこう。あの折こなたのいた館が、まだそのまま残っている」 人々はホッとした。大酒してこのように素直な信長を見たことがなかったのだ。 (元康は、あの悍馬の気心をよく知っている) そのおどろきが、やがて元康への親しみになっていった。 |
徳川家康
(四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ |