「一別以来、十三年、おなつかしゅうござる」 設けの席に着くと元康はいんぎんに頭を下げた。屈辱は感じなかった。瓜を割ってくれ、戦
話 をしかけ、馬を与えてくれたなつかしさに、虚心に頭が下げられた。 と、かって他人に一度も頭を下げたことにない信長が、 「童のおりの想い出は格別、会いたかった!」 これも同じようにしみじみと頭を下げて挨拶
したのだった。 舅
、斉藤道三はむろんのこと、父の位牌にも香をつかんで投げつけて、頭を下げなかった信長が。 人々は唖然として顔を見合わせた。 (わが殿が頭を下げる・・・・いったい三河の元康を何とおぼされているのか) 「駿府での長い辛労
、時おり思い出しては、苦しかろうと察していたぞ」 「元康も時おり、こなた様の夢を見ました」 「互いに無事で働き盛りの坂にかかる。曳いたら押そう。押したら曳こう。それが童のおりの約束だった」 「心に刻
んでいるところ。ただこの元康は・・・・」 言いかけると信長は手を振って、 「まだ駿府に重荷が一つ残してあると言うのであろう。わかっている。それは言うな」 元康はホッとして信長を見直した。 癇癖のつよい鍛え抜かれた刃金の様な少年だった信長に、いつか美しい分別の焼刃の匂いがただよいだしている。 氏真も人形のように整った顔だちだったが、信長の美しさは冴えきった刀身に似て、生きておどる武者ぶりだった。おそらくこれほど端麗
な武将はまたとあるまい。 わけてもその眼の輝きは心に迫るものがあった。 (想像に違わぬ育ち・・・・) と、元康は思った。これは 「天──」
が、今川に代わるべき者を欲して創造した人物に違いない。切れ味、理性、武勇と、恵むべきものを恵んで。 信長の感懐はその反対だった。 見たところ信長が想像していたほど凛々
しく鋭い武者振りではなかった。丸く豊な頬のあたりにいかにも質朴な線をきざみ、もの柔らかな姿勢のうちに不動の自信をかくしてみえた。 (この年で、この体で、あれほど鮮やかな駆け引きをやってのけた) いや、戦の駆け引きだけではなくて、岡崎城へ入ってからの経営も所領内への行政ぶりも眼を見張らせるものがある。 (結ばねばならぬ男・・・・) 信長は先ず近侍
に今日の引き出物を運ばせた。 元康には長光と吉光の長短一揃いの刀。植村新六郎には行光の太刀を贈った。 「三河の宝はこの信長にとっても大事な宝、植村これを取らす。行光の太刀ぞ」 信長の手から引き出物を渡される時、新六郎は戸惑った表情で、そっと元康の顔を仰いだ。 敵と信じきっている信長から、
「宝 ──」 といわれたことに、この律儀な老武者は割り切れないものを覚えているらしい。 「そなたの忠を賞
でられての引き出物、厚くお礼を申し上げよ」 元康がそういうと、新六郎の眼は見る間に真っ赤になっていった。 |