〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/29 (日) 礎 (八)

「では、われらは殿のおそばを離れるのか」
平八郎はもってのほかと言いたげに、母方の祖父植村新六郎に食ってかかった。
「われら一同、ここにぽかんと待つ間に、もしものことがあったら何とせられる」
「その時にはわれらが大声で呼ばわるわ。対面の席まで行けるものではない。そのようなことをして、殿の名をはずかしめるな。臆病者と笑われる」
「間違いはなかろうな」
元康が何のことかと耳を澄ましたとき、ふたたび迎えの者がやって来た。
「織田尾張守、本丸広間にて対面いたしまする。いざ、ご案内を」
「お役目ご苦労」
元康は立ってはかま のひだを正した。と、その元康に続いて、すぐに植村新六郎が元康の太刀を持って立ち上がった。
(ははあ、このことであったのか)
元康は、たよりなげに二人を見ている供の者に笑いかけた。
「心配は無用にせい。では、行って参るぞ」
おそらく改めて信長から苛酷かこく な条件は出されまい。が、今の場合出来得る限り、駿府の氏真を刺激したくはなかった。
元康が新六郎を従えて本丸に到着すると、遠侍とおざむらい に控えていた武士の一人が、
「太刀持ちは退 かれえ」
と、新六郎をさえぎった。元康はわざと後ろを見なかった。
新六郎は聞こえぬふりをよそおってのこのことついて来る。
「御前ぞ!」 と、また声がかかった。
すでに広間にかかろうとして、ずらりと並んだ重臣の眼が、いっせいに主従の上に向けられていた。
「当清洲の仕来り、御前への太刀持ちはまかりならん。無礼であろう。退さが られい」
「退らん!」
とつぜん、とうほうもない大声で新六郎がわめき返した。
「松平家にその人ありと知られた植村新六郎民義、主君の太刀を持って主君の行くところに従う。何の不都合ふつごう やある」
「黙れっ」
と、今度は上座の織田酒造丞みきのじょう が威丈高に えた。
「ここは岡崎ではない。清洲の城中ぞ」
「いずれの城中でも戦場でもよい。松平元康のおもむく所へ太刀持ちは着いて行く。各々おのおの はなぜそのように太刀持ちを怖れる。われら生あるうちに主君のそばを離れるものと思し召すか」
「ええい、無礼な・・・・」
酒造丞が立ちかけた時、正面の信長が手をあげた。
元康は黙って立ったままであった。
「三河の腰巾着こしぎんちゃく は植村か」
「さよう」 と、元康は答えた。
「植村が武勇は聞き及んでおる。松平家の三代、あっぱれの者。構わん。一緒に近う」
植村新六郎は一瞬ぽかんとしたようだったが、すぐにぐっと口をへの字にして元康に続いた。彼はいまだに信長の好意が信じられず、もし手を下す者があれば元康に太刀を渡して、自分は斬り死にのつもりであった。
「三河には得難い家臣がある。たしか祖父を刺した阿部あべ 弥七やしち 、父御を刺した岩松いわまつ 八弥はちや 、いずれも植村がその場を去らず討ち果たしたのであったの」
信長は元康をかえりみて、明るく笑いながら設けの席をゆびさした。

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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