〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/28 (土) 礎 (五)

元康が清洲を訪問することになったのはその翌年、永禄五年の正月だった。
家臣に中には元康の身の危険を想うてとめる者が多かったが、元康は聞き入れなかった。
滝川左近将監一益がやって来てからすでに一年になろうとしている。あの短気な信長が、その間じっと待っていたのだと思うと、これ以上に訪問をのばすことは、訪問の意味そのものを失うことになるからだった。
それに駿府の氏真はと見ていると、いよいよ亡国の道を踏み出したと判断すべきことが多かった。
あの剽悍ひょうかん な信長までがじっと癇癖かんぺき をおさえて待っているというのに、父義元の弔い合戦すらもよおし得ない氏真は、元康が駿府へやって来ないのに腹を立てて、一族松平家広いえひろ質子しち ら十余人を吉田城外で串ざしにし、首をさらしにかけたのである。
もし元康がそれを怖れて駿府へ出向いていたとしたら、尾張と三河の国境はどうなろうか。
「── 元康の心は読めた!」
信長は例の気性で、一気に岡崎まで進撃してくるに違いない。それゆえ岡崎は離れられぬと、どのように言い送っても氏真の疑心はおさまらなかった。
元康としては義元の討たれた永禄三年から滝川一益が和睦の使者にやって来た四年の二月まで、手をこまぬいて織田家に飽き足らずにいあたのではなかった。
少なくとも義元の弔い合戦らしく、信長の本勢は避け、拳母ころも広瀬ひろせ伊保いほうめつぼ など、松平氏とゆかりのある各所を帰服させ、伯父の水野信元とも、十八町なわて と石ヶ瀬の合戦で二度まみえている。
従って。氏真が父に劣らぬ人物ならば、当然元康の 「義 ──」 を認むべきであり、彼の立場の微妙さを考慮の入れて計るべきであった。
それが、水野信元との石ヶ瀬の戦いを最後として、信長と和を結んだ。結んだ以上はすでにいかなる小城といえども織田氏の勢力圏を攻むべきではない。
ところがそれはいよいよ氏真の疑心をあお って、氏真は、中島なかしま の城にある板倉いたくら 重定しげさだ吉良きら 義昭よしあき糟谷かすや ぜん 兵衛べええ などに命じて、ことごとに元康に反抗せしめた。
元康はこれを討って岡崎の守備をいよいよ堅くする以外になかった。
その結果が、吉田城外での質子の串刺しという、むざんな仕打ちになったのである。
殺されたのは松平家広の末子右近うこん西郷さいごう 正勝まさかつ の孫四郎しろう 正好まさよし菅沼すがぬま 新八郎しんはちろう の妻と妹、大竹おおたけ 兵右衛へいえ もん の娘、奥平おくだいら 貞能さだよし水野みずの とう 兵衛べえ浅羽あさば 三大夫さんだゆう奥山おくやま 修理しゅり などの妻子で、みな元康が岡崎へ還ってから松平家の旧恩を思って元康に帰服した人々の家族であった。
時は夏、場所は城下の竜拈寺りゅうねんじ 。見る人面をそむけざるはなく、命じられた吉田城代、小原おはら 肥前守びぜんのかみ 資良すけよし の家臣までが、嘔吐おうと をもよおす残酷さであった。
そして、その虐殺のあと、
「── 元康われに叛くにおいては、関口御前や竹千代、亀姫もかくのごとくすべし」
という拙劣このうえない脅迫が、元康をしていよいよ清洲訪問の決意をさせる外部的な事情であった。
従う者は十五歳の本多平八郎忠勝から、六十歳に近い植村新六郎氏義まで二十二人。
みなことあらばふたたび岡崎の土を踏まぬ決死の覚悟で清洲へ着いた。

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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