「アッハッハッハッ」 しばらく、元康の笑いは止まらなかった。 岡崎の留守居は元康を攻めるのでもなければ、尾張へ攻め入るのでもなかった。 それでこそ陣備えのおかしさも腑
に落ちた。彼らは義元の死に心をくじかれ、岡崎を捨てて駿府への後退をはじめたのに違いなかった。 元康は笑いながら、目先の桜の葉をちぎって、あたりいっぱいに投げ散らした。 (これが人間の弱さなのか・・・・) 影に怯えるとう言葉がある。大樹寺まで無事に引き揚げ、いまになって留守居と一戦しなければなるまいかと、元康自身が震
えているとき、城内の田中次郎右衛門もまた引き揚げのおりを狙って、元康が猛襲
しはすまいかとびくびくしていたのに違いない。 そして、わざと早暁の出発を避け、元康の部下が武装をゆるめている今ごろを狙ったのであろう。 それが元康には涙が出るほどおかしかった。 元康は小荷駄の先頭が、右へ曲がるのを見届けて笑いをおさめた。 そして、くるりと手綱をめぐらすと、もと来た道を大樹寺へ引き替えした。 大樹寺では、すでに下知があったら斬って出られるよう、近侍をはじめ酒井雅楽助
、同忠次、植村新六郎、石川清兼、大久保忠俊の老将たちまでが、半裸の上に胴丸をつけて槍をみがいていた。 「殿! いかがでござりまする」 忠次が眼を引きつらしていうと、 「こんどこそ一番乗りじゃ」 十四の本多忠勝は、元康の乗馬の鼻先でりゅうりゅうと槍をしごいた。元康はまたプーッと噴出しそうになった。と同時に腹の底から久しぶりにいたずら心がわいて来た。 「鍋
、騒ぐなッ!」 元康はわざと渋面作って馬からおりると、 「わしはしばらく休息する。十分に見張っておれ」 そう言い捨てて寺の中へ入って行った。 「殿、いかがでござりました」 「いっそこちらから攻め入って、わが城ゆえ取り返しては」 中でもすでに武装を終わった鳥居元忠と平岩
七之助 が詰め寄るようにたずねた。 「そうはゆかぬ」 元康はゆっくりと上段にあぐらをかいて、 「のう、祖洞、さっき上人も申された。義を欠いた戦はならぬ。今川義元にはわれら今まで育てられた恩義もあればの」 「祖洞は眼を丸くして元康を振り返った。 「では、その恩義ゆえに、みすみす討たれると仰せられるので」 「おう、それが世子、氏真の命とあればやむを得まい」 「そんなバカなこと!」 鳥居元忠がこぶしを握ってひざをたたいた時、 「殿!
殿! おかしなことになりましたぞ」 酒井忠次が、ふたたび首をふりながら入って来た。 「何事じゃ。あわてるなッ」 「田中次郎右衛門、どうやら駿府へ引き揚げる気配
なので」 「そのようなことはあるまいよ」 元康は真顔で答えた。 「それでは岡崎城が空家
になるでの」 |