〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/27 (金) 夜 明 け (五)

「アッハッハッハッ」
しばらく、元康の笑いは止まらなかった。
岡崎の留守居は元康を攻めるのでもなければ、尾張へ攻め入るのでもなかった。
それでこそ陣備えのおかしさも に落ちた。彼らは義元の死に心をくじかれ、岡崎を捨てて駿府への後退をはじめたのに違いなかった。
元康は笑いながら、目先の桜の葉をちぎって、あたりいっぱいに投げ散らした。
(これが人間の弱さなのか・・・・)
影に怯えるとう言葉がある。大樹寺まで無事に引き揚げ、いまになって留守居と一戦しなければなるまいかと、元康自身がふ<る/rt> えているとき、城内の田中次郎右衛門もまた引き揚げのおりを狙って、元康が猛襲もうしゅう しはすまいかとびくびくしていたのに違いない。
そして、わざと早暁の出発を避け、元康の部下が武装をゆるめている今ごろを狙ったのであろう。
それが元康には涙が出るほどおかしかった。
元康は小荷駄の先頭が、右へ曲がるのを見届けて笑いをおさめた。
そして、くるりと手綱をめぐらすと、もと来た道を大樹寺へ引き替えした。
大樹寺では、すでに下知があったら斬って出られるよう、近侍をはじめ酒井雅楽助うたのすけ 、同忠次、植村新六郎、石川清兼、大久保忠俊の老将たちまでが、半裸の上に胴丸をつけて槍をみがいていた。
「殿! いかがでござりまする」
忠次が眼を引きつらしていうと、
「こんどこそ一番乗りじゃ」
十四の本多忠勝は、元康の乗馬の鼻先でりゅうりゅうと槍をしごいた。元康はまたプーッと噴出しそうになった。と同時に腹の底から久しぶりにいたずら心がわいて来た。
なべ 、騒ぐなッ!」
元康はわざと渋面作って馬からおりると、
「わしはしばらく休息する。十分に見張っておれ」
そう言い捨てて寺の中へ入って行った。
「殿、いかがでござりました」
「いっそこちらから攻め入って、わが城ゆえ取り返しては」
中でもすでに武装を終わった鳥居元忠と平岩ひらいわ 七之助しちのすけ が詰め寄るようにたずねた。
「そうはゆかぬ」
元康はゆっくりと上段にあぐらをかいて、
「のう、祖洞、さっき上人も申された。義を欠いた戦はならぬ。今川義元にはわれら今まで育てられた恩義もあればの」
「祖洞は眼を丸くして元康を振り返った。
「では、その恩義ゆえに、みすみす討たれると仰せられるので」
「おう、それが世子、氏真の命とあればやむを得まい」
「そんなバカなこと!」
鳥居元忠がこぶしを握ってひざをたたいた時、
「殿! 殿! おかしなことになりましたぞ」
酒井忠次が、ふたたび首をふりながら入って来た。
「何事じゃ。あわてるなッ」
「田中次郎右衛門、どうやら駿府へ引き揚げる気配けはい なので」
「そのようなことはあるまいよ」
元康は真顔で答えた。
「それでは岡崎城が空家あきや になるでの」

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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