駿府の留守居が城を出て戦う? (いったい誰と?) まさかここから改めて尾張へ攻め入る無謀をあえてするはずもなく、またその勇気が田中次郎右衛門にあろうとは思われない。 とすれば、これは自分よりほかに相手はない
── そう思ったときに元康はすっくと席を立っていた。 「油断
ならぬ。すぐ戦の用意をせよ」 酒井忠次もそれを案じていたと見え、 「氏真の密命にござりましょう。奥方若君を質として、憎っくい仕打ちじゃ」 まだここに集まった兵力はさして多くはなかったし、それぞれの家へ戻って兵糧
の用意にかかっている者もある。こうしたところへ口実を設けて押し寄せ、元康を亡きものとし、永久に岡崎を手中に納める心かも知れなかった。 元康はともに立とうとする近侍をとどめ、忠次と連れ立って外へ出ると、馬を飛ばして伊賀
橋 の近くまで一気に駆けた。 「忠次、その方はすぐに兵を固めておくよう。が、合図あるまで討って掛かることは相ならぬ」 「と、仰せられまするが、先んずれば人を制すとか」 「いいや」
元康は首を振って、 「考えることがある。早まってはならぬ」 言いおいて伊賀川の堤
ぞいにただ一騎、馬をめぐらした。 たとえ氏真から密命があったにせよ、相手と交渉の余地あるうちは、この大地を血に染めたくなかった。 うしろには出陣に先立って祈願を込めた伊賀八幡の聖地があり、川の向こうはなつかしい誕生の地の城郭が、緑の中に隠見している。 桜の古木のかげにぴたりと馬を寄せると、元康は小手をかざして川の前方、大手の方をうかがった。 なるほど木の間がくれに城の内外で人の動いているのが見える。小荷駄、旗差し物、雑兵、騎馬・・・・しかし、そのいずれもが、気負い立って戦いに赴く人にしては、どこか動作が敏捷
を欠いていた。 はげしい暑さのためと、総大将の義元を失った影響とで、すっかり士気をくじかれているのだろうか。 (これならば、ひと合戦しても、まんざら・・・・) と、思ったとき、その陣備えのふしぎさに気がついた。 まず先手の一隊はよいとして、その次のはすぐに小荷駄が続いている。それも城中の兵糧倉を空にしたのではあるまいかと思うほどおびただしいものであった。 城外間近にいる元康を討つのに、こんな大がかりな小荷駄が必要のはずはない、ことによると、これは尾張に近いどこぞの城に、まだ味方が残っていて、それを救援するための出兵かも知れなかった。 (それのしては出発の時刻もおかしいが・・・・) 元康は小手をかざしたまま首をかしげて、先手の一隊の行く先を見守った。 川沿いに大樹寺へ向かって来るか。それとも左に折れて矢矧
川 の方に向かうか? 「はてな?」 元康が、思わず声に出してつぶやいたのはその先手が彼の予想を裏切って、尾張とも大樹寺とも反対の右の本街道へ折れたからであった。 「アッハッハッハッ・・・・」 何を感じたのか元康は、とつぜん馬上で声を立てて笑い出した。 |