浅井六之助が本多平八郎に引き立てられてゆくと、しばらく一座へは異様な沈黙が流れた。 桶狭間で昼食
して、今宵はこの城へ入るはずの今川義元がすでにこの世にいないという。六之助を不埒な奴と言いながら、元康はその口上を疑ってはいなかった。 いや元康だけではない。突然ハッハッハッ・・・・と声をあげて笑い出した大久保老人も、この密使の口上を信じているらしい。 「罰
が当たったのだ! アッハッハッハッ。われらが手柄を褒
めちぎって、わざわざ死地へ追い込むような駿府の狸め、罰が当たらなんだら、天道はこの世にないわい」 「爺 ──」 「はい」 「われらが斥候
はまだ戻らぬか」 義元の到着が遅いので、当然それは予定された進路に数人の者が密行しているはずであった。 「まだ戻りませぬが、もう程なく」 「すぐに真偽を確かめよ。そして重臣
どもにただちにこれへ集まるようにと申せ」 「かしこまって・・・・」 ござるを口の中でわめきながら、老人はもう元康に背を向けていた。 「事実ならば、一大事でござるな」 と、石川与七朗。 「シーッ」
とそれをおさえたのは鳥居彦右衛門。 気がつくと、元康は一文字に唇を結んで眼を閉じている。 十有三年の人質生活から、ついに人間元康は野に放たれる時を迎えた。 それも、敵の真っ只中に取り残された孤城の中で・・・・ (母に会うて来てよかった!) と、しみじみ思う。織田信長の心の中は計り難いし、水野下野信元はとにかく、後退することになったら野武士や乱波
は競い立って味方に襲いかかるのは知れきっていた。 岡崎城へは駿河
の留守居が入っているし、駿府までは退けない。 この孤城の兵糧
は数日で尽きるだろうし、籠城と決まったら、こんどこそ、刈谷の城兵も阿古居の城兵も攻め寄せて、血で血を洗う戦に変わるに違いない。 言葉を変えて言えば、それは前後左右に活路のない完全な死地であった。 その死地のま中に立たせて、 「──
力あれば生残って見よ ──」 おごそかに運命は元康を試みようとしている。 ふと元康は微笑した。 駿府で彼の帰りを待ちかねている瀬名
姫 と幼い子たちの顔がまぶたに浮かんだのだ。 (瀬名・・・・とうとう戻れぬことになったぞ・・・・) 元康はふっと立ち上がって、黙って縁へ歩いていった。 予期しないことではなかった。義元の死という事実が一つの均衡
を破るまで、松平蔵人佐元康の運命は駿府の人質で固定してしまっている。 したがってどこかでその死を待っていたかも知れない。 「それにしても・・・・」 元康は見るともなしに空を見上げてつぶやいた。雲がだんだん切れて来て、そこからキラキラといっぱいの星が見え、その一つがすーっと南の海へ落ちて行った。 |