この広い天地にわが身を入るるところはない ── その感じが、そくそくと元康の胸を打った。といって、それはそのまま絶望ではなかった。 星のまたたきを見上げたまま、元康は今に至って捨つべきものを数えていった。 第一に、この小城は寸時も早く捨てねばならぬ。妻子すでに捨てて来た。絶えず心で慕
い続けて来た母とは対面が別離であった。 岡崎城への執着
も捨てねばならぬし、どこかで自分を支えていた 「幸運」 という漠然
とした幻影も、今は、はっきりなげうたねばならぬ。 いや、それだけではまだ身動き出来ないものが残った。 (何であろう?) と考えて、ふと元康はありし日の雪斎
長老 の顔を思い浮かべた。 元康はフフッと笑った。 最後に捨つべきもの
── それはわが存在の否定であった。自分を否定し去ったところに、はじめて限りなく静寂
な 「無 ──」 が残る。 雪斎長老が、元康に残そうとしたその 「無 ──」 に、しばらくぶりで再会した。 「そうか。元康は死すべきだったのだ・・・・」 元康がもう一度口の中で、 「大死一番」
と、つぶやいた時に、 「殿」 広間へ駆け込んできた石川
清兼 が、 「噂は事実でござりましたぞ」 叫ぶように声をかけた。清兼の妻は於大の方とおなじ水野忠政の娘。今度も一方の侍大将をつとめているそこ子彦五郎
家成 は、元康とは同じ忠政の孫に当たる。 「彦五郎のもとへ密使がござりました。疑う余地はござりませぬ。信長が馬上に義元の首をかざし、意気揚々と清洲の城へ引き揚ぐる姿を見届けたと申しまする」 元康はこれに答えず、ゆっくりと広縁から戻って来た。 と、同時に、続々と広間へ集まる重臣たちの足音が聞こえた。燭台はふやされた。誰の顔も異様な興奮に硬
ばって、ゆらく灯りのもとで見ると鬼面をならべたように厳つかった。 酒井
左衛 門尉
忠次 を最後にして、みんなが両側へ居並ぶまで、元康は一言も発しなかった。 「みな集まったな」 「はいッ」 「みなも聞いたであろうが、噂はそのまま信じられぬ。噂におびえて逃げたとあっては末代までの恥辱
。これよりただちに清洲を攻めるかそれとも城にこもって討ち死にするか」 一座はシーンとして、すぐに言葉を返す者もなかった。 清洲へ夜襲。勝ちおごった今宵の清洲には、思わぬ隙があるかも知れぬ。 が、いじめ抜かれた義元にはそれほど義理を立てる必要があろうかどうか、という迷いがみんなの口を開かせない。そのことをはっきりみてとって、それから本心を口にする元康だった。 「それとも」
と、元康は微笑した。 「一度それぞれ岡崎のわが家に戻って、ゆっくりと動きを見届けるか」 それが、わが身を捨てて家臣のために思い定めた元康の決心だった。 「それがよろしゅうござりまする!」 こんどははじけるように、両側から同意の声がわきあがった。
|