〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/26 (木) 再 会 (八)

大久保忠俊に案内されて、水野下野守の家臣浅井六之助道忠は、元康の前に案内された。元康は昨日まで鵜殿長照のいた広間の正面に甲冑かっちゅう をぬぎ、よろい 直垂ひたたれ のままあぐらをかいて湯づけを食べ終わったところであった。
両側には鳥居とりい 彦右衛門ひこえもん 元忠もとただ石川いしかわ 七朗しちろう 数正かずまさ阿部あべ 善九朗ぜんくろう 正勝まさかつ 、それに本多ほんだ 平八郎へいはちろう 忠勝ただかつ が、それぞれ武装のままで、
「何者だ!」
足音を耳にすると声をそろえて大喝した。
すでに室内は暗くなって、五十目ごじゅうめ 蝋燭ろうそく 一本とも した大広間は、近づいてのぞき込まねば相手の顔はわからなかった。
本多平八郎が真っ先に太刀をとって立ちかけるのへ、
鍋之助なべのすけ 、おれだ、おれだ」
大久保老人は声をかけて、ずかずか元康の前へすすんだ。
じい か。その者は」
「水野下野守が使者、浅井六之助道忠」
浅井六之助はそう答えて二間ほどへだた った位置にぴたりと坐ると、
「主君の密使、お人払いを」
胸をそらすようにして、まっすぐに元康を見やった。眼の中で水をはったように燭台の火がゆれた。
「ならぬ!」 と大久保老人は、わきに突っ立ったまま叱り返した。
「ここにある者はわれらが大将松平元康とは一心胴体、はばかりなく使者のおもむ き申し上げよ」
浅井六之助はニヤリと笑った。
「さてさて羨ましい限り。では申し上げまする」
「聞こう」 と、これも老人だった。
「本日ひつじ の刻 (午後二時) すぎ、今川いまがわ 治部じぶの 大輔たゆう 義元よしもと 、織田上総介かずさのすけ 信長のため、田楽狭間において、首を掻かる。本隊五千はその場で壊滅かいめつ 。他の部隊は進退を失って支離しり 滅裂めつれつ ・・・・」
そう言ってから六之助は一度口をきって元康の反応を確かめようとした。
元康の面上にはさすがにおどろ きの色が流れた。が、
「口上はそれだけか」
たずねた声は意外なほどに静かであった。
六之助はもう一度うなずくように息をして、
「伯父甥の情誼じょうぎ によってお知らせ申す。この孤城にあってはあぶな い。今宵のうちに兵をまとめて退かれるがよろしかろうと・・・・これは、わららが主君だけの意見ではござらぬ」
「誰の意見じゃ」
「されば・・・・阿古居の御台みだい 御前ごぜん のご意見でもござりまする」
元康の面をまたちらりと感情の波が動いた。が、それも一瞬、
「鍋・・・・」
元康は静かに、本多平八郎をかえりみて、
「水野下野守はわれらが敵。怪しいことを言いふらしてわれらをまど わそうとする曲者くせもの から、ただちに大小を取り上げよ」
「はッ」
「取り上げてそのまま石川清兼がもとへ引き立て、 がさぬようにしかと見張れと申せ」
「かしこまりました。出せッ刀を」
平八郎がつかつ立っていって一喝いっかつ すると、浅井六之助はまたニヤリと笑って、素直に大小を差出した。
「立てッ」
「では、のち ほど」
六之助は落ち着き払って元康へ会釈えしゃく した。
「退かれる折の、道案内は拙者がつかまつる。ご免!」

徳川家康 (四) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next