元康が無事に大高城に帰りつくまでは、岡崎衆は身を削
る想いで待った。 そもそも義元が、鵜殿長照に代わって元康に大高城の番手を命じ、人馬を休ませよと言ったのからすでに怪しいと老臣たちは考えていた。 この領内深く入った孤城は戦の様相によっていつ死地に変わるかわからなかった。 それを知って休養せよと言い、 「──
もし織田の主力が大高に攻め寄せなば、亡命苦しからず」 と言い添えたのが義元の命であった。 「これはわれら味方を滅ぼす手だて。ご油断
はなりませんぞ」 織田の主力と決戦して亡命したら、岡崎衆は全く拠るべき所を失う。言い変えればそれは今川方不利な場合の、さらに後々まで考え抜いた義元の奸計とも思える。そんな場合に、元康は城を出て生母於大の方を訪ねると言い出したのだから無理もなかった。 植村
新六郎 は、 「もってのほかのこと。留守に攻め寄せられたら何としまする」 面
をおかして諫 めたが、元康は笑ってこれを退けた。 「敵にも味方にも思いがけない時こそ対面の好機なれ。心にかけるな。今川の本隊無事にある限り、大高などへ主力を向ける信長ではない。元康にはもっと深い考えあってのこと」 そのもっと深い考えとは何であったろうか。もし万一の場合に亡命する場所を・・・・と考えて久松佐渡や、水野
下野 などの肉親と連絡をつけておく気かも知れない。そう思ってそう思って送り出したのだが、途中でひどい豪雨になり、なかなか戻って来なかった。 それだけに暮れ方になって無事に城へ帰りつくと、老臣たちははじめてホッと胸をなでおろした。 今は義元の到着を待つばかり。 「城門の固めをきびしくして、城内にはかがり火を焚
き、今のうちに炊爨
せよ」 元康が奥へ通ると、酒井
雅楽助 と大
久保 新八郎
とはみずから固めを見て回り、それから炊爨を許した。 そうした大高城に義元討ち死にの風評が伝わり、最初にそれを耳にしたのは、城の外に陣取っていた天野
三郎 兵衛
康影 だった。 だが康影はそれが信じられず、石川
清兼 に申し出た。石川清兼はすぐに噂の出所をただすように命じて、まだ元康の耳には入れなかった。 ところが、いよいよ誰彼の顔も見分け難い時刻になって、まっすぐに城の大手へ乗りつけて来た武者があった。 「何者だっ!」 正門を固めていた大久保老人が大喝
すると、馬上の武者は馬から降りて、流れる汗を拭きながら、 「水野下野守信元
の家臣、浅井 六之助
道忠 、元康どのに直々
申し上げたい儀があって使者に参った。まかり通る」 と、息をついた。 「だまれっ。水野下野はわれらが敵、敵の家来をぬけぬけ通してなるものか」 「これはしたり、われらが主人は敵味方にわかれるとも元康どのは伯父
甥 の間柄、密命をおびた使者でござるぞ。もしご心配ならば、ご貴殿、われらがそばにつき添い、怪しいふしあらば、その折にこそ斬るがよい」 淀
みなく言い立てられて、大久保忠俊
はフフンと笑った。 「話に骨がある。取り次ぐ、待たっしゃれッ」 |