「殿! 十六年ぶりに会うたわが子、取り乱したとお叱り下されまするな」 「何の叱るものか。われらの知らぬところで、すでに勝負はついていたのだ。わしでさえどうしてよいのか夢のような気がする」 「殿!
わらわに差し出た計らい、お許し下さいましょうか」 「おお、許す許さぬのことではない。策あらば申してみよ。おことの子じゃ!久松の家のためにもわるう計らう人ではない」 「ならば久六を、すぐ清洲へおつかわせ下されませ」 「久六を・・・・何と言ってやるのじゃ」 「大高城の松平元康、この母がいんで説き伏せても必ず清洲の殿にはさからわせませぬ。と・・・・」 「おお!」 俊勝は膝をたたいた。 「それゆえ攻めるなと、申すのじゃな」 「はい。その間に城を捨てて引き揚げさせる。それよりほかに手だてがあろうとは覚えませぬ」 俊勝はうなずいてすぐまた外へ走っていった。 於大はもう一度眼を閉じて、乱れた息を整えた。 運命! それが、これほど大きな波になって胸を打って来ることはなかった。 駿
、遠 、三
の三ヶ国に君臨して、永久に栄華を約束されたかに見えた今川
義元 が、すでに一個の泥に汚れた首に変わっていようとは・・・・? みずから駿府
御所 と近臣に呼ばしめ、屋形と呼ばれるを嫌った義元・・・・そのおごりも一朝の夢であった。 女性
の身にとって乱世ほど呪
わしく悲しいものはない。が、この乱世は駿、遠、三の安定をまた根こそぎ揺り立てて、ごうごうと以前にまさる怒涛
の中へ巻き込んだ。 (いったいこれから誰が、どのような勢いを得てゆくか・・・・?) むろん於大にその見透しはつかない。が、でき得れば、わが身辺だけへは誤りない借置講じて血の香だけは近寄せたくなかった。 「母さま、何が起こったのじゃ」 両親の様子
のただならなさに、源三郎がたずねたが於大は答えず、 「誰ぞ、平野
久蔵 を呼んでくりゃれ」 もう良人の指図だけにはゆだねておけなかった。自分の才覚を傾けつくして、この怒涛からわが家、わが子、わが肉親を守らねばならない。 長福丸の乳母が、平野久蔵を呼んで来た。もう義元討たる!
の飛報はこの小城の隅々まで行き渡って、みんなの眼色が変わっていた。 平野久蔵は竹之内久六とともに熱田
にあった元康のもとへ、よく使いした老臣の一人であった。 「奥方さま、大変なことができましたなあ」 久蔵が入り口に両手をつくと、 「こなた急いで刈谷
の城へ使いしてたも」 と於大は言った。 「下野さまに、大高城を攻めてはならぬ。伯父
と甥 と戦うより、急いで元康に大高城を引き揚げさせるよう・・・・よいか。岡崎へ引き揚げさせるが上
分別 じゃ。於大が頼み!くれぐれも無意味な血を流さぬよう下野さまに申してくりゃれ」 それはもはや、いつもの柔和
な於大ではなく、女丈夫のきびしさが全身を貫いて、言葉を返させぬきびしさを持っていた。 |