藤吉郎の悠々とした姿に、信長は舌打ちして曳いて来た馬にまたがった。すでに三里の道を駆けていながら疾風
の平首には汗ひとつにじんでいなかった。 いや疾風だけではない。その馬を曳いて来た藤吉郎は、今にも折れそうな細い脚をしていながら、 「疾風、ご苦労じゃな。拙者に負けるなよ」 と、馬の方を労
わった。 「出発!」 と叫んで、信長が走らせ出した時、人数はかれこれ八百。 「それ、殿に遅れるな!」 と家来の人数の揃った者から順に続いた。むろんまだ、具足を着けながら駆けつける者は絶えない。 こうしたありさまを眺めては、那古野から熱田へかけての町人百姓ががっかりするのも無理はなかった。 「──
いったいこれはどうなるのだろう?」 「── どうなるといって、向こうは五万も八万もいるというのに、こっちはまるで身支度も出来ていない。考えるがものはあるまい」 「──
やっぱり負けか」 「── 何でまた、支度ぐらいはしておかなんだか」 「── いやいや、まだ負けてはいないぞ」 中には信長を慕
うあまり、ひどく希望的な観察を下す者もないではなかった。 「これは敗れて逃げるのではないぞ。これから進もう・・・・いや身支度も出来ぬうちから、それッといって駆け出して来ているのだ。勇ましい限り!
きっと勝つ」 だんだん兵力は増えていったが、しかし、全部が集まっても知れた数だった。そのうちに、擬兵の用意が出来た。これは合戦になったら旗を捲いて、田に難を避ける約束で、加藤弥三郎が指揮し、兵のとぎれたところ、とりれたところへ挟んでいった。 旗は蓆
がないだけで、百姓一揆さながら、腰巻、古布子
、手拭い、褌 のたぐいまでが見られた。 信長はその最先頭を駆けている。少し味方が遅れると、藤吉郎は信長の指図を待たずに路傍の草むらへ馬を曳き入れてはぐるぐると輪乗りさせた。 大将の気性を思うと馬をとめるにしのびない。とめてしまっては心をくじくと計算して、わが身の疲れをいとわぬ藤吉郎の仕種
であった。 熱田の浜から天白川
まで満々と潮が満ちているので、大高城へ直接向かうわけにはいかなかった。 信長は本街道から旧道へ馬首を向け、黒末川
を川上で渡って古鳴海をめざした。 本街道はすでに笠寺まで敵が進出していたし、葛山信貞の清洲進撃部隊五千はここを通って来るに違いなかった。もしその一隊との遭遇戦になっては、尾張の全勢力が釘
づけになって身動き出来なくなってゆく。 四ツ (午前十時) 近い頃であった。 「猿! 馬をとめよ」 古鳴海から丹下
をめざす前方の空へおびただしい火炎の煙の噴き上げているのが見えた。 鷲津と丸根が焼けている。 「ム・・・・」 信長が馬の上で背伸びしたとき、前方から負傷した敗残の兵が三々五々と連れ立って落ちて来るのが見え出した。 |