信長の眼は燐光を放って光っていた。しかし不思議なほどに心は平静だった。 丸根が燃えている。鷲津が焼かれている。しかしそれは当然のことが、当然やって来たのに過ぎなかった。 ひた押しに押して来る今川勢を丸根や鷲津で食い止め得るものではない。信長の狙
う戦機はその後にあった。 前線からやって来る勝報に耳かたむけながら、悠々と本隊を進めて来る今川義元とどこで遭遇戦になってゆくか? そのときが信長の生涯を決定する時であった。 城にも妻子にも、わが心の守神と信じる熱田の宮へも、決して勝利を期し勝利を願ってきたのではない。 屈服も籠城もできないわが性格に、性格の命ずるままの行動を取らしめたに過ぎないのだ。 「馬を停めよ」
とどなっておいて、 「誰ぞ!」 信長は敗走してくる兵の前に立った。 「おお・・・・殿!」 二人の雑兵
に助けられて落ちて来た武者が、胴丸の右をおさえて顔をあげた。小びんから流れる血潮が頬から首筋を黒く染め、乱髪が物言う前歯に乾いてからんでいた。鷲津の守将織田玄蕃だった。 「玄蕃か。戦況は?」 「殿!
防戦ついにかなわず、丸根の砦で佐久間大学討ち死につかまつりました」 「うーむ」 信長はうめくようにうなずいて、 「大学だけか大将は?」 「鷲津では飯尾近江が・・・・」 玄蕃はそういうと、無理に刀を杖にして立ち止まろうとした。玄蕃のうしろに曳かれて来ていた彼の馬が、悲しげな声でいなないた。主人の異様な様子がわかるほかに、これも首と尻に四すじの矢が立っている。 「殿!
無・・・・無・・・・無念!」 信長の返事がないので玄蕃はかっと眼をむいた。だが、その視線の先に、もう信長をとらえる力はないらしく、だんだん雲が出て来て、重苦しい蒸し照りに変わった空の一角へ向けられている。 信長は、手をあげて、敗兵の行進を止めた。そして、いきなり鞍の上に片膝ついて起ち上がった。 玄蕃はそのとき、力つきたようによろよろッとよろめいて、左右から助けられながら地べたへ伏した。 「ものども、これを見よ!」 信長は馬上に立つと鎧の脇下からチカリと光る縄のようなものを引き出した。 「ああ数珠・・・・」 「数珠だ。銀の大数珠だ」 信長と数珠、その組み合わせがあまりに思いがけなかったので、みんなの視線はそこへ集まった。 信長はすばやくそれを肩にかけた。 「ものども、これが信長の今日の覚悟ぞ。馬上にあるはすでに死んだ信長ぞ!
わかったかッ」 「おう!」 「みんなの生命、おれにくれ。くれる者はうしろへ引くな。戦はこれからだぞ! くれる者だけおれにつづけッ」 それは平素の信長より、数倍の大きさに見える。油照りの空を衝く面
もむけられぬほど、はげしく強い巨像であった。 「おう!」 みなは思わず刀を抜いて夢中で振った。 |