〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/20 (金) 疾 風 の 音 (五)

信長の神前祈願は、意外なほどに士気を鼓舞こぶ した。つねにそうしたことは無視する人で、京の皇居と、伊勢大廟と、熱田の社だけしか拝さぬ信長だった。
それが尊信している熱田の社へ願文をささげ、鏑矢を献じたのである。
祈願を終わって出て来ると兵の数は五百内外に増えていた。
信長はそれを睨んで、奥殿から出てきた加藤図書を手招いた。
「こんどはな、ここでしばらく世話になった松平元康・・・・ほれ、竹千代よ、あれも敵の中にいる。弥三郎にな」 といって、ぴしりともどかしげに頬へとまったはえ をたたいた。
弥三郎というのは図書の倅であった。
「この界隈の百姓町人、漁師船頭、出来るだけ多くかり集めよと命じてくれ。人数が足らぬ。それからあらゆる古布ふるぎれ で旗を作ってくれ」
図書はこくりとうなずいて走り出した。
やはり兵力が足りないのだ、擬兵を作って敵の眼を瞞着まんちゃく しなければ近づき難いのかも知れぬ ── そう思うと図書の胸もつまって来た。
「四万と五百では戦にならぬ・・・・」
その時になってようやく重臣たちが信長の前に集まった。
柴田権六、佐久間右衛門、吉田内記、丹羽長秀ながひで 、林佐渡、同じく信政のぶまさ 、平手汎秀ひろひで佐々さっさ 正次まさつぐ 、生駒出羽、それに、いつのころか現れて、信長の身辺を警戒させている梁田正綱。
「殿!」 と、林佐渡がまず口を開いた。
「重臣ほとんど駆けつけました。お指図を」
信長はぎろりと鋭く見回しただけで、何も言わなかった。
「作戦をうけたまわりおきとう存じまする」
「作戦・・・・」
信長は吐き出すように言って、
「作戦はこの人数で四万の敵を蹴散らすことだ」
「いかなる手配にて?」
「知らぬ!」
「知らぬでは、足並みが揃いませぬ」
「揃わぬ奴は落伍らくご しろ。信長自身を作戦と思え」
そこへ一人、商人とも武士ともっつかぬ、ふしぎな身のこなしで飛び込んで来た者がある。
その男は信長の後ろに立っている梁田政綱の前へころがるように膝をついた。
「わが殿! 橋場正数にござりまする。敵の大将義元はいぜん輿に乗ったるまま沓掛の城を立ち出でましてござりまする」
梁田政綱は大きくうなずいて、信長に向き直った。
「めざす先は大高城であろうな」
御意ぎょい !」
「お聞きのとおり」
梁田政綱がそいういうと信長はつかつかとみんなの前を離れた。
「赤飯をうんと食べろ。よいか。食べたらおれに続け。猿! 馬を け! 馬じゃ」
その声に応じて、藤吉郎が、大鳥居わきから、いかにものどかな顔つきで、
「ただいまそれへ」
のこのこと馬を曳いて現れた。
すでに五ツ (午前八時) になって額の鉢金に陽が熱かった。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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