信長が熱田の社前で勢揃いしたのは少なくとも三つの意味があった。 その一つはむろん敵に味方の行動を予知されないため。その二は馳
せ集まる家臣の速度によって、味方の士気を計ること。三はここが最も敵に近く勢揃いをなし得る場所であったこと。 馬を大鳥居前に乗りつけると、 「赤飯!
赤飯!」 と叫んだと言うのは、赤飯ではなくて、祐筆
の武井 肥後
入道 夕菴
を呼び立てたのであった。 「夕菴には前もってこの日ささげる祈願文を認
めさせてあった。その祈願文に鏑矢
をそえて神前に納めさせる ── というといかにもそれは信長らしくない故事の踏襲
に見えたが、そうしてここに馳せ集まる家臣を待ち合わす肚
なのである。 「せきあん! せきあん!」 と、呼び立てられて、社家の加藤図書順盛
は、このことあるを察して密かに炊いてあった赤飯を半切りに盛って運び出したし、ようやく追いすがった夕菴は願文をささげて汗をふきふき信長の前に立った。 信長はきびしい眼をして、うしろに続く人数を数えた。まだようやく二百騎あまり、時刻はすでに五ツ
(午前八時) になろうとしている。 「先殿のご遺訓から推して必ずご出陣があるものと、赤飯を用意いたさせました。存分にお召し上がり下さりますよう」 図書助の言うのへ直接答えず、 「ご好意じゃ、みな受けよ」 信長はたたきつけるように叫んで、 「夕菴、読め」 と武井肥後に向き直った。肥後は入道頭の汗をふきふき願文を読み上げた。 源
(今川家) の義元が駿河、遠江、三河の三国に暴威を揮
い、ついに心中に不敬を蔵し、四万の大軍を引き連れて京を犯さんと陰謀する。その陰謀を破砕せんとして、起った平
の信長は、勢力わずかに三千に足らず、蚊の子が鉄牛を咬
むに似たれど、心中一片の私心もない。王道の衰微を憂い、民を救わんがための義挙ゆえ、よくご覧ぜられて見誤ることなかれという意味であった。 肥後の声はあるいは高く、あるいは震えた。 が、神杉
の影をうつした朝の社前にうそぶくように突っ立った信長は、その願文の内容などは聞いていなかった。 読み終わってうやうやしく信長の手に渡すと、信長は 「よしッ!」
と叫んでそれを掴み、ずかずかと拝殿をのぼって中殿へすすんだ。 左手には弓をたずさえた長谷川橋助が従い、右手には信長の兜をささげて岩室重休がしたがった。いずれも紺糸おどしの胴丸をつけて、頬は桃色に上気していた。 信長は図書の差し出す三方に、鏑矢と願文をのせて、それから神酒
の土器 を取った。 巫女
がうやうやしく酒を注ぐと、がぶりと音を立てて一口で乾し、じっと神殿の奥を睨んで、ことりと盃を返すとそのまま社前へ降りて来た。 今の信長には次々に鳥居をくぐってやって来る人数だけが問題らしい。 「みな、よく聞け!」 拝殿を降りるとまなじりをあげ集まった人々に吼
えるように言った。 「今祠殿に金革の音が聞こえた。神明はわれわれを助くるそうな。疑う奴は叩っ斬る!」 |