濃姫の心配の種は信長の信仰と言ってもよいほどの 「性格」 の中にあった。信長は乱世を正すものは一切が
「力 ──」 ひとつと確信している。 「──家中を治めるのは徳でござりまする」 生前平手
政秀 がそういって諌言した時、信長は心の底からおかしそうに笑った。 「──
乱世というはな、古い道徳が価値を失った時に生まれるものだ。徳とは何ぞ。徳とは・・・・アッハッハ」 信長は 「徳 ──」 とは何であるかが上下にはっきりした時には乱世は終わっていると嘲笑った。 そして、一切を
「力 ── 」 によって切りまわした。いちいち人の意表をつき、肉親の争いも、重臣の裏切りも慄
えあがらせては屈服せしめた。 したがって今信長の領内に盗賊すら影を秘めている。上に厳しく下にはかなり寛大なのも原因だったが、盗賊の類までが信長を畏怖
していることも見落とせなかった。 そうした信長が今日は織田一族の運命を賭けて清洲城を飛び出していったのに、続く者は五騎だったという・・・・ 平素の不満が爆発して、この一大事に遅れた人々がそのまま反乱するようなことがあったらどうなろうか? 「奥方さま」
と、またお八重に呼びかけられてハッとした。 「半助は五騎だと言いましたが、そのあとから、あわててみな殿を追ってゆきました」 「おお・・・・みんな追っていってくれましたか」 「はい、柴田さまも、丹羽
さまも、佐久間右衛門さまも、生駒さまも、吉田内記さまも・・・・そしてそれらの家来が、胴丸をつけながら、道いっぱいに土煙を上げて駆けて行きました」 濃姫はうなずいたが、ただ駆けて行ったと聞いただけでは安堵はならなかった。それらの人々が信長に追いつけずに不平を抱いて落ち合ったら・・・・ 「では、私もすぐに身支度しましょう。あとの注進に気をつけて」 お八重を見送って濃姫も薙刀をとって来た。襷
をかけ、髪をきりりと巻き上げながら、ふとわが父、斉藤道三入道の最期のさまが思いやられた。 父は兄に討たれた。 その子の自分もまた、敵より先に叛軍の手にかかる・・・・そんな予感が胸をよぎると、濃姫は薙刀を斜めに構えた。 見えないものを睨んで、
「えっ!」 と一振りふってみた。 抜けるような白さの腕に、鍛
えた力がよみがえった。敵にあれ、叛軍にあれ、近づく者は斬って斬って斬りまくろう。 濃姫が気負った自分の姿に気づいてふと微笑を取り戻した時、第二の注進が馳せ戻った。矢田の弥八という猪より早い足自慢の若者だった。 「殿は何とされたぞ」 縁先へ走り出して叱るように声をかけると、相手は大息ついて胸をたたいた。 「殿には・・・・熱田の杜の大鳥居まで一気に駆けられ・・・・」 「そこで馬から降りられたか?」 「はい、赤飯
! 赤飯と大声で呼ばわりながら・・・・」 「なに赤飯と・・・・?」 その意味はわからなかったが、濃姫はホッと胸をなでおろした。 信長ははじめから熱田の社前で勢揃
いする肚だったのに違いない。と、同時に、それがどんな意味を持つかも濃姫にはすぐわかった。 「そうか社前で・・・・」 そういうと薙刀を突いたまま濃姫の眼は見る間に赤くなっていった。
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