〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/19 (木) 疾 風 の 音 (一)

信長の消えていった奥の館は暴風の後のような静けさだった。
お類の方も、お茶々の方も茫然として入側いりがわ の外の朝の陽を見ていた。すべてが夢のような想いなのに違いない。
ここが清洲の城内であることも、自分たちが信長の側室であったことも、子供を産んだことも・・・・
いったいこうしたあわただしさで出て行って、果たして帰って来るのかどうか? 生とは? 戦とは? 死とは?
側室の中でいちばん身分の低い深雪はいっそう哀れであった。彼女は、身にしみ付いた腰元時代の慣わしで、そのときも嵐の去った後片付けをしなければと、食べ散らしていった信長の膳をしっかりつかんで震えていた。
奇妙丸は生母のお類の代わりに正室濃姫の膝に手をおいて、不安そうにみんなを見回していたし、あとの小さい二人は乳母にすがってすくんでいる。
徳姫だけが、形だけ大人おとな ぶって、不安や恐怖の外に坐っていたが、頑是無いゆえだと思うと、これも胸が詰まってくる。
しばらくそうしたしじまが続くと、濃姫はおだやかにみんなを見回した。
もうその場には長谷川橋助も岩室重休みいなかった。彼らもまた素早い身支度で信長の後を追って行ったのだ。
「生駒どの」
濃姫はお類を見るとあやしい感情がツーンと胸をかすめていった。この女が、自分には産めなかった信長の子を産んだのだという妬心としん のほかに、子は産んでも後の指図はなしえまい ── そんな哀れみと優越ゆうえつ の入り混じった想いであった。
「覚悟は出来ていましょうの」
不意に話しかけられて、お類よりもお奈々と深雪がハッとしたようだった。
「殿のお身を想うなら、どのようなことがあっても取り乱してはなりませぬ。それぞれ覚悟は出来ていましょうの」
「どのゆな場合・・・・と仰せられますると」
濃姫の侍女だった深雪がいちばん正直だった。救いを求めるように両手をついた。
「お指図下さりませ。お指図のとおりいたしまする」
「今度の戦には三つの場合がござりましょう」
「その一つは?」 と、今度はお類であった。
濃姫は氷のような眼差しでもう一度みんなを見回してから、
「このまま討ち死になさる場合。そして、もう一つは城へ引きあげられて籠城なさる場合。あと一つは・・・・」
そこまで言って言葉を切ると微笑した。
「勝って凱旋がいせん なさるとき」
三人は顔を見合ってうなずきあった。いや、三人だけではなくて、徳姫と奇妙丸とが、声をそろえて、
「勝ってのう」 とうなずきあった。
「そうそう勝って・・・・」
濃姫は奇妙丸の頭へ片手を乗せて、
「討ち死にの時、退いて籠城と決まった時、奥の指図は私がしまする。みなに異存はござりますまいなあ」
きびしい声で念を押し、また奇妙丸の頭を静かになでていった。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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