藤吉郎が入っていったとき、信長は悠々
と金扇をかざして舞いだしたところであった。 |
人間五十年 下天
の内をくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり |
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叱咤
の声は戦陣にあって敵をすくませると言われた自慢のもの。それが朝の空気を破って朗々と奥から表、表から庭へと響きわたって行く。 得意な時には必ず謡
いながら舞う 「敦盛
」 の一節であった。 藤吉郎はニヤリとして端近に控えた。 信長の身なりは平素のままのかたびらだったが、そばに濃姫と奇妙丸と徳姫が、いかにも神妙な表情で控えていた。 そのうしろにお類の方とお奈々の方と深雪
とが、これも藤吉郎に横顔を見せて並んでいる。二男の茶筅丸と、三男の三七丸は乳母に抱かれて、反対側の窓辺に坐っていた。 近侍は片腕のない長谷川
橋助 と岩室重休の二人。いずれもちらりと藤吉郎に視線をむけて、すぐまた信長の舞に見入った。 |
下天の内を くらぶれば 夢まぼろしのごとくなり
ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきや |
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側室の中でいちばん情にもろいお奈々の方が、眼にいっぱい涙をためて、必死でそれをこぼすまいとしている。 子供たちはまだいずれも無心だったが、濃姫は、すでに今日あることを覚悟して静かに心も形も整えている感じであった。 謡い終わると、小鼓を打っていた気に入りの城下の町人有閑
にパッと扇を投げつけるように渡して、 「猿! 起しに来たかッ」 と、斬りつける語気であった。 「仰せのとおり」 藤吉郎はゆっくりと頭を下げて、 「丸根はすでにおち、鷲津は苦戦と存じまする」 信長はそれには応えず、 「治部大輔が本隊は?」 「沓掛を今朝出発、大高城に向かうこと確実なりと・・・・これは梁田政綱が手の者の注進にござりまする」 信長はニヤリと笑ってつづけさまに三つうなずいた。そしてパッとかたびらの肌をぬぐと、 「具足をヨコセ!」 怒号に似た声をあげて、はだかの腹をパアンとたたいた。 三人の側室はびっくりして顔を見合わせたが、濃姫だけは、さすがに斉藤道三が、「兄妹中随一」
と愛して来た姫だけに、 「用意の具足急いでこれへ」 膝を立てて凛と命じた。 「はッ」 二人の近侍は、はじかれるように立ってゆく。 「飯!」
また信長は腹をたたいて突っ立ったまま叫んだ。 「あの、何と仰せられました」 まだ朝の湯づけが済んだばかりだったので、お類の方が訊き返した時、末座の深雪は、ころがるように立ちかけた。 「これ・・・・」 濃姫はその深雪をおさえて、 「大事な出陣、用意の御酒
と勝栗 、忘れまいぞ」 侍女に言う調子できびしく念を押していった。
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徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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