三人の総代が帰ってゆくと、義元は近侍に水を運ばせてうまそうに飲んだ。 「弱将の領民はあわれなものよ」 苦笑しながら、最後の一口をプーッと霧にして太刀の柄から体へ吹きかけ、 「しかし油断はならぬぞ。予の知る限りでは、この辺に不逞な野伏せりがかくれているはず。よい、輿をあげよ」 行列は再び沓掛めざして動きだした。 松平元康からくれぐれも油断なきよう
── 幾度もそれをいわれているので、水田と水田を区切る岡にかかると、つねに斥候がとばされた。 しかし、そうした厳重な警戒にもかかわらず、青田の中でまっ白な鷺
がのどかの餌をあさっれいるだけで、やがて遠くへかすむゆく手の平原に陽はおちていった。 まだ猛暑の季節ではない。それなのに陽はおちても気温は少しも下がらなかった。むんむと蒸れる夕凪のよどみの中に、螢がゆるやかに飛び出した。 本隊が境川を渡って沓掛へ着いたのは、あたりが蛙の声でいっぱいになってからであった。 沓掛はその昔からの宿駅で、京
── 鎌倉六十三宿の一つであった。 ここから鳴海までは一里十四丁、熱田までは三里の距離で、小城ではあったが、堀越義久の固めは厳重をきわめていた。 本隊は、境川の近くにある裕福
寺 から城の内外一帯にたむろして、賑やかに炊煙
をあげていたが、義元はどこか落ち着かなかった。 べつに明日の総攻撃の結果を案じているのではなかった。戦旅へ出ると、日々の生活すべてが、駿府にいるとは比較にならぬ不便さで、その上このあたりには嫌いな蚊が多いのが、たまらなくうるさかった。 「香をいぶせ」 食事をしたためる間に何度もそれは命じたし、食事が終わって、最後の軍議がひらかれても、絶えず二人の近侍に蚊を追わせていた。 「明日はいよいよ総攻撃でござりまするが、馬に召されまするか、やはり輿になされまするか」 堀越義久がそう訊ねると、 「織田の小
冠者 風情
に」 義元はそう言っただけで、あとは言わなかった。 わざわざ馬に乗るにも及ぶまい ── というより、肥りすぎて股がすれては、いよいよ大事の一戦というときに、陣頭に立てなくなる。それを警戒して、危険なしと見届けたら輿で行く気の義元だった。 義元は書院の中央に夜具をのべさせて寝た。そしてその時も絶えず二人の近侍に蚊を追わせていたが、近侍の疲れを想うと、自分が寝そびれそうで困った。 「夜というは、よくよく性に合わぬ。昼はこの蚊がいぬだけでも助かるが・・・・」 明日はいよいよ信長の領地を蹄
にかける。勝算は歴々としている戦だけに 「礼の者」 が運んできた酒樽ぐらいは近侍に振る舞ってもよいのだが、酒の香がするといっそう蚊どもが寄って来る。 (──
勝ってからの事にしよう) そう思って、酒を飲まなかったのも妙に神経を冴えさせた。 かがり火だけは終夜明々と焚かせてあったが、八ツ過ぎになると、さすがにあたりはシーンとなった。義元は八ツ半ごろになってようやく眠った。そして眼がさめたときには、もう松平元康の岡崎勢は丸根の砦にはげしく襲いかかっている時刻であった。 |