〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/17 (火) 竜 虎 (二)

「この近郷の土民ども、礼の者を立てて、ご祝着しゅうちゃく を申し述べにまかり出ましたが・・・・」
右馬允がそういうと、義元はちかりと鋭く警戒する眼になった。
「なに、礼の者が・・・・わざわざ眼通り許すにも及ぶまい。名前だけは聞き置くよう」
「はッ」
「待て右馬允」
「はッ」
「その土民ども、見かけたところ、うさんな様子、不逞ふてい な様子は相見えぬか」
「はい、一人は僧侶、一人は神官、一人は百姓にござりまする」
「三人だけで参ったのか」
「近在三郷の総代の由にて、米十俵、酒二樽、するめ、こんぶなどを持参いたしました。実直そうな者どもと心得まするが」
「祝いの品を運んで参った人足どもは」
「愚かしげな百姓の下男どもにござりまする」
「よい、会って見よう。連れて参れ」
輿はとまった。義元は太刀を引き寄せて、しかし輿からは降りなかった。
「暑い。少し風を入れよ」
「はっ」
二人の足軽に左右から煽がせて、僧侶を先頭にした三人が近づくと、
「予が治部大輔じゃ。このたびは難儀をかける。が、案ずるな。予の家来どもには乱暴は働かせぬ」
と、柔い声で言った。
三人はハッと路傍に平伏した。
義元の輿を止めた位置には松の古木が影を作っていたが、三人の平伏したところはじりじりと乾ききったほこり の中であった。
「そちたちは、誰の支配のもとにおるぞ。刈谷か、池鯉鮒か?」
「はい。ただいまは刈谷でござりまするが、おん大将さまの直々のご出馬では、明日をも知らず」
と六十近い僧侶が言った。
「心配いたすな。すぐに戦はすむであろう」
鷹揚にうなずいたあとで、義元は、
「しかし、織田勢も手強てごわ い由でのう、援兵が参ったら、そう容易たやす くはないかも知れぬが」
「その事でござりまする」
と、こんどは百姓が口を出した。
「われらも、このあたりは激しい戦場になるものと、案じきっておりました。ところが援軍などは来る気配もござりませぬ」
「ほほう、なぜじゃな」
「はじめから織田方は、清洲へ籠城の肚のよしにござりまする。はい、それがわかりましたのは、台所方から、籠城するのに足らぬゆえ味噌を出せと、はい、私どものところまで、あわてた様子で参りましてござりまする」
「なに味噌を求めに参ったと・・・・?」
「はい、台所方の下役にござりまする」
義元はうなずきながら、しかし、幾度も首をかしげていった。彼の得ている情報では、信長は用心深く、内輪は裕福と聞いていた。
「そうか。そうなれば戦渦の及ぶところはわずかですむ。役向きの者に姓名を告げて立ち帰り、それぞれ家業に精出すように」
「ありがとう存じまする。べつに賦役ふえき などのご用もござりますれば、この際・・・・」
「よいよい。治部大輔はな、その方どもの力は借らずとも、家臣は十分に持っている。案じるな」
「恐れ入ってござりまする」
三人は顔を見合わせた。眼の中が赤くなっているのは、義元の言葉に彼らがどんなに胸打たれたかとう証拠であった。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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