〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/16 (月) 竜 虎 (一)

からりと晴れていた空が、今日からはひどい油照るに変わった。青葉をそよがす風もなく、地殻ちかく の裏から されているような空気の重さであった。
もう今村にかかって沓掛くつかけ の城は見えている。が、義元の進軍は慎重をきわめた。
一郷を通り抜けるごとに斥候ものみ を放っては土民の空気をさぐらせ、異常なしと見極めてから輿を進めた。
出陣に先立って松平元康が、このあたりの土民の頑強さをしきりに口にしていたからであった。
永禄三年 (1560) の五月十八日 (太陽暦六月二十一日) 、すでに翌十九日の早暁から織田軍の最前線へ総攻撃を開始する手はずになっている。それだけに身辺の警戒も厳重にさせてあったし、義元自身の武装にも一部の隙もなかった。
蜀江錦しょっこうにしきよろい ひたたれを羽織った下には胸白の具足をまとい、太刀は二尺六寸、自慢の宗三左文字、脇差しは重代の松倉郷の義弘だった。三十貫に近い巨体で馬には乗れなかった。それが金銀のびょう を打った輿の中へ悠然と胡坐こざ している。はた眼にはあたりを払うばかりのきらびやかせであったが、義元自身は絶えず汗を拭いていた。
十六、十七の両日は岡崎城にとどまり、あらゆる場合に備えての手配はすでに終わっていた。今日は沓掛の城に泊まり、明早暁からの総攻撃の結果を見て、明日中には大高城まで本隊を進めるつもりであった。
前軍はすでに昨日から鳴海の近くへ入ってしきりに諸村へ火を放ってまわっている。義元は汗を拭きながら、ときどき膝の地図と配備に眼をおとしている。
夜の明けるか明けぬかに、まず松平元康が二千五百の岡崎衆を引具して丸根まるねとりで へ襲い掛かる。
丸根の敵の守将は百戦錬磨の佐久間大学盛重もりしげ だった。
元康はまだ若い。が、老練な岡崎衆が、よもや敗れはとらぬであろう。
つぎには鷲津の砦へ、朝比奈泰能の二千をあたらせる。ここを守る敵の大将は織田玄蕃げんば 信平のぶひら 。これも老巧な戦上手だ。したがって朝比奈勢だけでなく、三浦備後守の三千人を援隊として万一に備えてゆく。
鳴海城へは岡部おかべ 元信もとのぶ を新手七百人を加えて堅く守らせ、沓掛城へは浅井政敏まさとし の千五百人をあてて守らせる。
そして、大高城の鵜殿長照には、機にのぞみ変に応じて、松平元康と朝比奈泰能に応援させる。
いわば三段構え、これでまず国境での勝利は完璧かんぺき と言えた。そこで、ただちに葛山かつらやま 信貞のぶさだ 以下の五千人をもって、清洲城へひた押しに前進させる。
降るもよし、籠城もよし、あるいは信長が陣頭に立って襲って来てよし、たとえ葛山隊の五千が蹴散らされたとしても続く本隊の五千人があると両者を合わすと清洲攻めの勢力は一万。いや、そのうちには松平、朝比奈、三浦の諸隊も、勝ちに乗じてひた押しに清洲へ迫る・・・・
「籠城しても二日か・・・・三日とは持つまいが」
そう想ったときに、
「申し上げます」 と近侍の新関にいぜき 右馬允うまのすけ が輿のわきに寄って来た。
「何ごとじゃ」
義元は膝の配備図をまいて静かに言った。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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