「恐れ入りました。さっそくこれへ」 藤吉郎が立ちかけると信長は皮肉な笑いで呼び止めた。 「よい。その方が立つには及ばぬ。小姓をやろう。そして、その方の膳もこれへ持たせてともに食べよ」 信長は手を鳴らして近習を呼ぶと、薄笑いを浮かべて藤吉郎の膳も運べと申し付けた。 藤吉郎の顔にちらっと狼狽
の色が走った。 彼の膳 ── などといって特別に作らせたことはなかった。試食の毒味で、たらふく飯を詰め込んで、それで日々すましていた。 いま改めて信長の命を伝えていったら配膳方は面食らって、どんな膳を作って来るかわからなかった。 もちろん信長はそれを知っていて命じている。信長と同じ膳など持って来られては一大事だった。 「猿
──」 「はい」 「賭
けをしようか」 「何なりといたしまする」 「膳のことじゃが」 信長はニヤニヤと頬を崩して、 「その方、きちんと配下に心得は教えてあろうな」 「申すまでもないことにござりまする」 「それにしてはちと顔色が蒼い。あおの鮎の霜降りに毒でも焚きこめてあったのか?」 「おん大将!」
と、藤吉郎は生真面目
に顔を撫でて、 「毒はおん大将の口にござりまする」 「何を賭けよう、猿」 「さよう、もし藤吉郎の心掛けに過
ちなくば、今川勢との合戦の折に、この猿にも一隊の指図お任せ下さるよう」 藤吉郎ははらはらしながらも、機会を捉えては押すことを忘れなかった。その性格が信長には面白くもあり小癪でもあった。 「では心掛けに欠くるところがあった節は」 「お心のままに」 信長はフフンと笑って、巧
みに狼狽をつつんでゆく藤吉郎をみまもった。 林佐渡や、柴田、佐久間などの重臣にない天衣
無縫 さを猿は持っている。人の心をそらさず、かといって軽薄すぎる感じもない。つけつけと言うべきことを口にしながら、ぐいぐい相手の心をつかむ。 しばらく彼の上役だった藤井又右衛門のいうところでは、これでひどく女たらしだということでもあった。 「──
あの顔で、まさかと存じておりましたところ、足軽どもの女房、娘などで、こそこそとあれが長屋に惣菜
を運ぶ者がござりまする。困ったことで」 几帳面
な又右衛門はそう言った後で、 「── 八重にも心するよう厳しく申し渡してござりまするが」 と、付け加えた。 その藤吉郎に信長はいま一つのことを命じたものかどうかと迷っている。こうした乱世では生残ってゆくのに幾つかの条件が必要だった。 その第一はむろん能力手腕だった。が、それにはすでに藤吉郎は及第
したとみてよかった。 しかし第二のそれは後天的な素質以上のもの・・・・ 「運 ── 」 と世人の呼ぶものを、果たして持って生まれて来ているかどうかであった。 信長はいまその藤吉郎の
「運 ── 」 を試みようとしている。膳が運ばれてきたとみえて、近習
たちが次の間を立つのがわかった。 |