清洲城の台所は、四間梁
八間の板張りだった。その中央に一間四方の炉が切ってある。炉の前に真四角にあぐらをかいて、 「これ、試食の膳はまだできぬか」 大声でわめいたのは、新しい台所奉行の木下藤吉郎だった。 「はッ、只今それへ」 賄
い方の小者が答えると、 「早くいたせ、腹が減ったぞ」 藤吉郎はそう答えてから、 「減ったのはわしではない、殿がことじゃが」 と、言い直した。 一年の歳月はこの猿に似た男の身の上にも大きな変化をもたらした。 彼はもはや藤井又右衛門配下の小者ではなかった。三十貫の扶持を取り、織田家の台所を預かる奉行なのである。 はじめは厩
の掃除番だったのが、いつの間にか信長の草履
取りになり、それから馬のくつわを握り、さらに山林方から台所奉行という、石段をかけ上るような出世ぶりだった。 なぜこの猿に似た男が、それほど信長の気に入るのかだれもはっきりわからなかったが、この男はそれをみずから面白い作り話にしてみんなに聞かせた。 「──
人間はな、鼻で息の出来る間に頭を使わねばならぬものじゃ」 彼が囲炉裡
の向こうでそい言い出すと、賄い方も下女たちもそれ始まった ── という表情でクスクス笑った。 「少しとぼけた奴はな、口でハアハア息をするようになってから初めて頭を使いだす。遅い!
魚でも口でパクパクやり出した時には、もう死期に近づいた時じゃ。ところが、もっと、とぼけた奴になると、頭は死んでから使うものと思うている。よいか。頭は生きているうち、それも鼻で息の出来るうちに使うがよいぞ」 するとおつねと呼ばれる下女がいつもからかうように口を出した。 「──お奉行さまは、それでご出世なさったかや」 「──
そうじゃ。拙者は厩番だった時には、どうして馬と話の出来る人間になろうかと苦心した。馬と話が出来ねば、よい馬飼いにはなれぬ。苦心さんたん、まる三日かかったぞ。馬の言葉を覚えるのに」 「──
では草履取りだった時には、草履の言葉も覚えたでござりましょうの」 「── たわけめ。草履がものを申すか。その時には毎朝他人より一刻早く出仕して、草履を背中で温
めておいたわ。腹で温めるとたんせきになるゆえなあ」 「── ホホホ、では山林方のときは、何となされましたや」 「── なんでもないこと。盗伐しなかっただけのことだ。人間はな、上役に眼をごまかし、主人のものをくすねようとする性根、これがあっては出世はせぬ。みなも心せよや」 真面目
くさってそういうくせに、この新しい奉行は食事ごとに信長と同じ料理を二人前つくらせて、囲炉裡の向こうで舌つづみを打ってゆく。したがってこの城で、いま一番美食をしている者は、信長とこの奉行であった。 「はいお膳ができましてござりまする」 「そうかご苦労」 鷹揚
にこたえて、藤吉郎は役得の箸
をとった。 |