〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/11 (水) 歩 速 の 諧 調 (四)

「考えたことはないであろう。無理もない」
雪斎はそう言ってから、自分でも軽く眼を閉じた。
「若い間はそれに行き当たらねば死を知らぬ。が、人間は誰も彼もが必ず死ぬのだ。ところでわしが死ぬとどうなるか・・・・よいかの、御所は必ず京への出発をとり急ぐ。御所とてもその意味では死を忘れている。だからわしの死にうながされて事を急ぐ。北条、武田と同盟のなった日が、京への出発の日となろう」
次郎三郎はじっと雪斎の眸をにらんでうなずいた。窓の光の反映で、老執権の表情は木彫りの面のように静かであった。
「むろん尾張では織田軍を蹴散らして通るつもりであろうが、織田とて手をつかねてはいまい。越後と結んで甲斐をおびやかし、美濃と同盟して今川勢をさえぎる。そうなると御所の軍は美濃、尾張の同盟軍と決戦せねばならなくなる。わしがもし軍配をとるのだったら、ここでゆっくりと対陣しながら戦機を見るが、御所にはそれが出来ぬ」
「なぜでござりましょう。べつに短気なご気性とも」
「短気ではない。短気ではないが、うしろが心にかかるのじゃ。わしの軍配なら御所は勝敗決するまで駿府にいて、小田原の北条をじっとにら んでいられようが、みずからの出陣で、駿府に残っているのが氏真では、心にかかって先を急がずにはいられなくなってゆくのだ・・・・それに・・・・」
と、言いかけて、枕辺の水差しをゆびさして、
「のどが乾いた。水を・・・・」
次郎三郎は言われるままに水を飲ませた。
「それに、御所の日々の生活が、対陣にはひどく不向きじゃ。蹴まり、連歌はよいとして美食の癖は長対陣を苦しめる。これも急ぐ原因の一つ・・・・」
次郎三郎は雪斎の的確に指摘してゆく一つ一つが、ことごとく自分の思考の霧を払うのが不思議であった。
(この老人には自分の死後の世界がはっきり見えている・・・・)
「さて・・・・そう事を急がねばならなくなると、敵を蹴散らすに足るだけの大軍をよう して、ひた押しに押し切らねばならぬが・・・・その第一陣はむろんお許じゃ」
次郎三郎はぐっと膝でこぶし を握った。彼はまだ雪斎の亡くなった後の今川家を考えたことはなかった・・・・
「よいか元信どの・・・・そのとき、もしお許やお許の家来に、先陣はみな斬り死にせよと御所の下知が下ったら・・・・」
「さあ・・・・」
「お許はその場で何とする? そのことを深く考えておかねばならぬ」
いつか窓の梅に小鳥が一羽来てとまった。頬白ほおじろ らしい。無心な声でさえずりだすと、次郎三郎は息が出来なくなりそうだった。
「大丈夫というのはの、いつも先に先の覚悟が大事じゃ。狼狽ろうばい しておくれを取る。わしが見透しに、お許の考えと相違したところがあったらいうがよい。わしは必ずそうなるものと思うがどうじゃ」
「元信も・・・思いまする」
「その時に、お許の正室は駿府にいるぞ。室があれば子もできよう。御所は、立派にお許のあとは立てさせるというであろうが、いわばこれはお許にとって代わった人質・・・・妻子を人質に取られたままで斬り死に・・・・と迫られて、お許は何とするか?」

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ

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