〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/11 (水) 歩 速 の 諧 調 (三)

次郎三郎がおとなう前に、足音を聞きつけて、ここにも寺僧が出迎えていた。
次郎三郎はぐっと腹に力を入れて太刀を手にさげ、本堂を抜けて近ごろ建てられた隠寮おんりょう へ通って行った。
「元信どのか」
「はい」
めぐらした屏風びょうぶ の中から意外にハッキリと声を聞くとかえって次郎三郎は胸がつまった。
いわれるままに枕辺へ廻っていって、
「ご病気いかがでござりまする」
雪斎は、静かな声で、
「よい天気じゃ。あれを見られよ」
いっぱい小春日をうけて、梅の枝をかっきりうつしだした釣鐘窓つりがねまど へ眼を投じた。
「こうしてここに寝ていると、わし自身がお陽さまになったり、梅になったりする。快い」
窓に描かれた梅はすでに三枚の葉しか残っていなかった。
「春が終わると夏が来る。秋が終わると冬に移る。自然のすることは大きいのう」
「長老さま、ご病気は?」
「知らぬ。冬が来たのじゃ。わかるであろう」
「はい」
「そこでな、春の近いおこと生命いのち の種、志の種を残さねば相ならぬ」
やつれが眼立った。ニコリと笑った笑いのうちにすみとおった冬の空のきびしさがにじんでいた。
「わしもお許の婚儀を祝いたかったが、婚儀は来春じゃで・・・・元信」
「はい」
「わしは正直なところ、この婚儀、お許のために避けたかった」
「と、仰せられますると・・・・?」
「わからぬか。お許の重荷がもう一つ増えるのじゃぞ。今川家への義理という、大きな重荷が」
次郎三郎はうなずいた。
「かっての義理はの、お許の父と、今川家とのいわば相対あいたい の駆け引きだった。が、一族から、正室を迎えると、次の子供は血縁じゃ」
「はい」
「そこでわしは初めには反対だった・・・・が、考え直して賛成したわ。わかるか」
「わかりませぬ」
「お許にもよく申したようにの、人生の荷は重いほどよいと悟ったからじゃ。その重荷に耐えることが、ずっと大きくお許を育てる・・・・お許はそれに負けない強さを持っている。よいかッ!」
「はいッ!」
「そう思うて賛成したが、さて、お許にそのことを何と説き聞かそうかと、しばらく迷った」
次郎三郎は、鋭い語気の後で、はげしく波打ち出した純白の夜具を見ていると、死期はすでに迫っている ── そんな感慨で、あぶなく眼頭がうるみそうになった。
「お許にな・・・・それがどにょうな重荷であるかを、いっそ知らさずにおこうか・・・・いやいや、それでは念が足りぬ。やっぱり説いて聞かしておこう・・・・そう思ったのは実はこのわしがこの窓から陽や桜や、梅に来る小鳥や月と遊びだしてからじゃ」
「はい」
「お許はよく先に先を考える子じゃ。いま義元の姪と結ばれ、それのよって両家の和を・・・・とは考えたであろうが、この雪斎の死を考えたことがあったか? 正直に申してみよ」
次郎三郎はかすかに首をふりながら、とうとうホロリと一粒、膝に涙をこぼしていった。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ

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