〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/10 (火) 雌 伏 の 虎 (九)

少将の宮町の入り口で、竹千代と伝心は、本多の後家に別れた。智源院を訪ねるというのだから、祖母の源応尼を頼って行くのに違いない。
祖母が口をきわめて気性をほめていた本多の後家まで、国を捨てなければならないほど家中のものは困窮しているのであろうか。
後家が子供の手を引いて智源院の山門を入ってゆくと、
「どうじゃ。こたえたか」
伝心はぽんと竹千代の肩を叩いた。
「大将がしっかりせんと、あのとおりじゃ」
竹千代は答えにかわりに、大きく長い吐息をついた。
「おぬしももう十一、大人になった証拠を見せて、領地の安堵をはかる年じゃぞ」
そう言ってから伝心はまた、とってつけたように笑った。
「いまならば遅くはない。三河者の心はまだ崩れてはおらぬ。あの後家の眼の澄み方! 筋の通った霞を食うて生きている面魂つらだましい じゃ」
「うん」
「さ、今日はこれまで、あとはお側の衆と勝手に戯れなされ。わしはこれから雪斎長老にお目通りじゃ」
門の前まで来て、大きな声で、
「竹千代さまのお戻りじゃぞオー」
どなったまま伝心はさっさと去って行った。竹千代は門を入った。
バラバラと駆け出して来た平岩ひらいわ 七之助しちのすけ石川いしかわ 七郎しちろう をじろりと見たまま声もかけずに居間へ通った。
居間には去年駿府すんぷ へやってきた鳥居とりい 元忠もとただ がきちんと姿勢を正して待っていたが、竹千代はそれにも言葉はかけなかった。
どっかと机を背にして坐って、じっと虚空こくう を見つめて考えている。
「何かご心痛でも?」 と、元忠が言った。
元忠は十四歳になって、すでに前髪の似合わぬほどの体格になっている。
「元忠!」
「はいッ」
「そなたは国表の事情を知っていよう。みなひどく貧乏か」
「はい、豊ではござりませぬ」
「食べるものには事欠かぬか」
「さよう。あわひえ のほかに野草のたぐいも色々ござれば」
「衣服はどうじゃ」
「はい、昨年の秋でした。平岩ひらいわ 金八郎きんぱちろう が、娘の為にはじめて布子ぬのこ調ととの えました」
「はじめて・・・・」 と、竹千代は怪訝けげん な顔で、
「その娘は幾つになった?」
「十一に相なりました」
竹千代はぐっと大きく、元忠を睨んだ。
生まれて十一年、初めて布子を新調したとは何という憎い言葉であろうか。
「それ以外には新調の話はまだ聞きませぬ」
「下がれ元忠!」
「はい、下がりまする」
元忠が下がってゆくと、竹千代はギリリと歯をかみ鳴らした。相手は真実を告げたのだ。それに腹を立てるとは何という・・・・そう考えてみるのだが・・・・感情は必ずしも意志に屈服しなかった。
一度下がった元忠がまた引き替えして、
「申し上げます」
入り口に手をつかえると、竹千代は我を忘れてどなり返した。
「うるさい! なんじゃ」

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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