駿府へ来てから竹千代は様々な流民を見た。屈強
な男は稀で、女子供や不具者が多い。野伏りも出来ず、盗みも出来ない哀れな物乞いが、追われても追われても城下へやって来た。 (日本中にどれだけ流民がいるのだろうか?) 時々それを考えては胸の痛むことがあった。 そのことを雪斎長老に話したとき、 「──
だからの、早く天が下を鎮める者が出て来なくては」 長老は悲しげな面持ちでつぶやいたが、まだ竹千代に、その言葉の裏の期待までは汲
み取れなかった。 したがって、遊び興じるときの竹千代は、流民のことなどきれいに忘れ去っている。が、おま眼の前にその一人を突きつけられて呼吸のつまる想いであった。 祖母が常々その忠烈を語り聞かせてくれた本多の後家。いま竹千代のおぶっている子供の祖父忠豊
は、最初の安祥 攻めのおり、わが父の身代わりとなって戦死し、その子の忠高
もまた四年前に同じ城に一番乗りして、味方の進撃路を作ったまま敵の矢に斃
れた。 その折に忠高の後家は身ごもっていたという。 祖母の源応尼は、その後家をいちど駿府にともなったと聞かされた。しかし気丈な後家は、ここで子を産むことをきらい、三河へ戻って男たちに立ち混じり、田を耕しながら遺児の教育にあたりたいと言ったそうな。 「──
そのほうが父祖の志を継ぐ子になろうというのでなあ」 源応尼にそう聞かされたとき、竹千代は熱いしこりがしばらく胸から消えなかった。 (そんな家臣が自分にはある・・・・) そう思うと、誇りよりも悲しさの方が深かった。 ところがその本多の後家までが、ついに三河を捨てて流民におちたというのであろうか・・・・? 竹千代は、おぶさった子供の着物の袖にそっちさわった。わが母が水野家から岡崎に嫁いで来るおり持って来たという棉
の種。その棉から繰られた手織りの布子は、縞目もわからぬほどに疲れ切っている。後家の襟あしも素わらじも、悪臭を放ちそうな感じであった。 (許してくれ・・・・) 竹千代は心の中で背の子にわびた。 伝心はそうした竹千代の姿を、ちかりちかりと観察しながら、とぼけた調子で後家に話しかけてゆく。 「どうじゃな、今川家の代官が入ってから暮らし向きの楽になられた岡崎衆もあるであろうが」 「いいえ、そのゆなお方はございません」 というと、今川家の取立てが、松平家の時よりきびしいのかな?」 後家はそれには答えず、 「尾張との国境に、あれこれと城や砦
の物入りが多うございますゆえ」 「すると松平の家中は総貧乏か」 「ハイ。総領が生まれても産着
を作った話はほとんど聞きませぬ」 「なるほど・・・・すると駿府にいられる竹千代どの一人がたよりじゃな」 「ハイ。それも・・・・」 言いかけて後家が口をつぐんだ時、竹千代の背で急に子供がむずかり出した。空腹なのであろう。竹千代は腰の飯袋をはずして、そっと子供に持たせてやった。
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