〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/10 (火) 雌 伏 の 虎 (七)

呼び止めた女は年は二十四、五であろうか。百姓とも武士とも見わかぬもの腰で、腰には短い刀を差し、着ている布子ぬのこ は継ぎはぎだらけらった。
連れている子供はと見ると、これは目と耳とが際立って大きく、栄養の足りない頬が陽やけに光って、乞食こじき のように見すぼらしい。
しかもその女は片手に子供の手を引いて、背にはボロボロの布につつんだ包みを背負っている。
「ほう・・・・」 と竹千代よりも先に伝心が立ち止まった。
女の腰に刀がなければ、乞食の引越しとでもいいたい姿だった。
「だいぶ長い旅をして来られたようじゃが、おぬしは武士の内儀じゃな。問いたいことというのは?」
「はい。駿府の少将の宮町へ参る道をうかがいとうござりまする」
「少将の宮町・・・・」
言いながらちらりと竹千代を振り返って、
「なぜ本海道から堂々と入られぬ。近道はわかりにくいぞ」
「はい。ご覧のとおりの足弱をつれておりまするのでな」
「そうか。おぬしは三河のようじゃの。少将の宮町ならば歩きながら教えて進ぜる。どなたのお屋敷をおたずねじゃ」
女はちかりと警戒するように伝心を見て、
「はい。智源ちげん いん と申す小寺へ参りまする」
「ほほう。智源院か。智源院ならば行く知っている。住持じゅうじ の智源どのも、境内けいだいいおり にすむ源応尼どのも・・・・」
そう言ってから竹千代に近寄って、
「見覚えないか?」 と小声でたずねた。
竹千代はかすかに首を振った。見たようでもあり見ないようでもあって思い出せない。
「よしよし、おぬしその子をおぶってやれ。ひどく疲れているようだ」
竹千代は一瞬ちょっと立ち止まり、意を決したように子供の前へしゃがんだ。
「おぶってやろう。わしも同じ方向へもどるのじゃ」
子供は遠慮しなかった。よほど疲れているとみえ、白くかわいた鼻汁の頬をぶつけるようにしておぶさった。
連れの女はくどくどと礼をのべてから、
「少将の宮町には、岡崎の松平竹千代さまもおいでのようにうかがいましたが」
と、さぐるように言いだした。
「うん、いるいる。いるぞ」 と伝心だった。
「いぬしも何かゆかりの人かの」
「いいえ」 と女は首を振った。
「良人の生きているうちは、ご縁もございましたが・・・・」
「ほほう、するとおぬしは後家ぐらしか」
「はい」
「では、松平家があのようなことになったので、生計にも困るというところかの」
「はい」
わしも以前に岡崎へは足をとめたことがある。おぬしの亡夫は何と申された」
「女はまた警戒するようにちかりと伝心を見てから、
「本多平八郎と申しました」
「ほほう、本多平八郎どのが後家か。するとこの子はその息子。いずれは平八郎を継ぐ子であろう。そうか、そうであったか・・・・」
いく度かうなずいたあとで竹千代を振り返った。
「よい子をおぶった。音に聞こえた勇士の子じゃ。おぬしもそれにあやかれよ」
竹千代は両眼を真っ赤にして、ぷいと脇をむいて歩いた。

徳川家康 (三) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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