林佐渡のつぶやきは、しかし、人々の耳に入らなかった。人々はもはや想像を越えた信長の行動に、一種の催眠
状態に落ち込んで、批判の力をなくしている。 くるりと霊前に背を向けて、しばらくじっと立ちはだかった信長は、そのまま出口へは歩かなかった。獲物
を見つけて身震いする鷹
のように順次に一座を見渡しながらみんなの凝視をあびてゆく。 「殿!」 と、政秀が声をかけた。 「あれにお席が・・・・」 しかし、それが耳に入ったのか入らぬのか、信長はつかつかと二、三歩親類の席に近づき、清洲の織田彦五郎に、突っ立ったまま、 「ご苦労だった」
と声を投げた。 実力では信秀に及ばずとも、家格は本家、彦五郎は真
っ蒼 になってぷいっと眼をそらしたが、そらしながらも頷いてしまったのは、さからい難い信長の猛気にあてられたからであろう。 信長はすぐに犬山城の織田信清に眼を移した。 「なにかと骨を折らしたようじゃの」 信清はポカンとしていた。もしもそれが骨を刺すような皮肉とわかったら、そのまま引き下がる人物ではなかったが、あまりにとっさでこれも応酬できなかった。 信長はまたトンと太刀を突きなおして二、三歩あるいた。 父の弟、母の兄、そうした大小名を、君主の威厳で、 「ご苦労
──」 とねめつけて、 「殿!」 ふたたび平手政秀が呼び止めた時には、もうまっすぐに出口へ向かって歩いていた。 五味新蔵が、ハッとわれに返って、 「お次は・・・・勘十郎信行様」 震える声で順序書を読み上げたが、まだ大半の眼は吸い寄せられるように信長を追っている。 信長は仏殿をおりるまで一度も後を振り返らなかった。いつか薄陽
のさしそめている木立の下で、例の太刀をくるりとかついで片手を縄の帯にはさんだまま、さっさと山門へ向かってゆく。 濃姫は信長が見えなくなると、はじめて自分が生きているのに気がついた。 ホッとしたのではない。 (さすがに殿・・・・)
と考えるにはあまりにも奇行がすぎている。昨日の昼間、肚は決まった、迷いは断った ── といったその肚が、いくぶん分る気がするのが、かえって心配の種子であった。 この分では一族全部を敵にして、一歩も譲らぬと宣言しているように思える。 鳴海の山口、犬山城の信清、その二人に同時に事を謀られても、古渡、那古野の運命には大きく響くにちがいない。 (それなのになぜあのような倣岸
さで風変わりな威圧を加えてゆくのだとうか・・・・) そこまで考えて来て急に平手政秀のことが気にかかった。今では信長の唯一の腹心・・・・というよりもやっぱり師傳
の政秀が、今日の不始末を一族からなじられて、詰
め腹 を切らせられるのではあるまいか? そうなっては信長は、文字どおり孤立の孤児に成り果てる。 そっと家老席を見てゆくと、しかし、政秀は何事もなかったように、静かな眼差しを正面へ投げている。 「上総介様ご内室」 五味新蔵がようやく平静を取り戻して、よく透る声で濃姫を呼んだ。 |