〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/09 (月) 花 供 養 (十)

林佐渡のつぶやきは、しかし、人々の耳に入らなかった。人々はもはや想像を越えた信長の行動に、一種の催眠さいみん 状態に落ち込んで、批判の力をなくしている。
くるりと霊前に背を向けて、しばらくじっと立ちはだかった信長は、そのまま出口へは歩かなかった。獲物えもの を見つけて身震いするたか のように順次に一座を見渡しながらみんなの凝視をあびてゆく。
「殿!」 と、政秀が声をかけた。
「あれにお席が・・・・」
しかし、それが耳に入ったのか入らぬのか、信長はつかつかと二、三歩親類の席に近づき、清洲の織田彦五郎に、突っ立ったまま、
「ご苦労だった」 と声を投げた。
実力では信秀に及ばずとも、家格は本家、彦五郎はさお になってぷいっと眼をそらしたが、そらしながらも頷いてしまったのは、さからい難い信長の猛気にあてられたからであろう。
信長はすぐに犬山城の織田信清に眼を移した。
「なにかと骨を折らしたようじゃの」
信清はポカンとしていた。もしもそれが骨を刺すような皮肉とわかったら、そのまま引き下がる人物ではなかったが、あまりにとっさでこれも応酬できなかった。
信長はまたトンと太刀を突きなおして二、三歩あるいた。
父の弟、母の兄、そうした大小名を、君主の威厳で、
「ご苦労 ──」 とねめつけて、
「殿!」
ふたたび平手政秀が呼び止めた時には、もうまっすぐに出口へ向かって歩いていた。
五味新蔵が、ハッとわれに返って、
「お次は・・・・勘十郎信行様」
震える声で順序書を読み上げたが、まだ大半の眼は吸い寄せられるように信長を追っている。
信長は仏殿をおりるまで一度も後を振り返らなかった。いつか薄陽うすび のさしそめている木立の下で、例の太刀をくるりとかついで片手を縄の帯にはさんだまま、さっさと山門へ向かってゆく。
濃姫は信長が見えなくなると、はじめて自分が生きているのに気がついた。
ホッとしたのではない。
(さすがに殿・・・・) と考えるにはあまりにも奇行がすぎている。昨日の昼間、肚は決まった、迷いは断った ── といったその肚が、いくぶん分る気がするのが、かえって心配の種子であった。
この分では一族全部を敵にして、一歩も譲らぬと宣言しているように思える。
鳴海の山口、犬山城の信清、その二人に同時に事を謀られても、古渡、那古野の運命には大きく響くにちがいない。
(それなのになぜあのような倣岸ごうがん さで風変わりな威圧を加えてゆくのだとうか・・・・)
そこまで考えて来て急に平手政秀のことが気にかかった。今では信長の唯一の腹心・・・・というよりもやっぱり師傳しふ の政秀が、今日の不始末を一族からなじられて、ばら を切らせられるのではあるまいか?
そうなっては信長は、文字どおり孤立の孤児に成り果てる。
そっと家老席を見てゆくと、しかし、政秀は何事もなかったように、静かな眼差しを正面へ投げている。
「上総介様ご内室」
五味新蔵がようやく平静を取り戻して、よく透る声で濃姫を呼んだ。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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