〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/09 (月) 花 供 養 (十一)

濃姫が立ち上がると、みんなの視線はいっせいにこの奇矯な殿の妻の上にあつまった。
美しかった。打ちひしがれた理性が支柱を失ってなよやかな弱さが全身ににじんでいる。
ある人は気の毒なと想い、ある人々は思い出したようにため息した。
敵地に等しい那古野の城へ嫁いで来て、たよる殿はあの奇矯さ。いずれは一族に寄ってたかって打ちたたかれるに違いない ── そうした観点に立つ人々には、佳人薄命の哀しさは姫の為にあるかのような気さえした。
香をささげて霊前に立つと、姫は静かに瞑目した。
(私だけは良人の心がわかりまする・・・・)
瞼に浮かぶ信秀に、父の死を知って落胆した信長の本心が知らせたかった。
(どうぞあの人をお護り下さる様に・・・・)
それだけを一筋に祈らずにはいられなかった。
焼香を終わって席に戻ろうとすると、三歳の市姫が、濃姫の袖をとらえて、片言まじりに、
とと さま、死んだ・・・・?」
と、首をかしげた。
この姫は御所ごしょびな 雛が歩き出したように愛らしく、これも人々の涙をそそった。
土田御前と濃姫の焼香が終わると、大ぜいの庶子たちが生まれた順に霊前へ進んだ。
そして十二男の又十郎が岩室殿に抱かれて焼香に立つと、これはまた、濃姫の時とはおよそちがったどよめきがわき起こった。
この若く美しい愛妾は、嬰児とともに取り残された哀れさとは別の艶冶えんや さで人々の眼を引いた。
「あれでは大殿が末森の城を離れなかったのも無理からぬ」
「全くのう、美濃御前とはちがったあでやかさを持っている」
「さよう、美濃御前をすっきりと咲き出でたあやめにたとえるなら、これは緋牡丹ひぼたん でもあろうかの」
「しかしまだ十八歳、これから誰の手活ていけ の花になるやら。放っておくと、これも何かの争いの種子たね になりそうな」
主を失った女への連想は哀れさを通り越して、別な興味の中心になってゆく。
そうした私語を、家老席で黙々と聞いているのは平手政秀だった。政秀には忽然こつぜん と現れて、すぐまた風のように去って行った信長の心がまだ解けない。
(何のために・・・・?)
と、考えると、胸の中で、二つの感情がはげしく噛みあってゆくのである。
何の思慮もなく、あのような奇矯ことをやってのける信長とは思えない。と、いって、これでは親類、家中すべての者への挑戦ちょうせん ではないか。
挑戦してぐっと押える力が信長にはあるのだろうか?
なければこれは暴虎ぼうこ 馮河ひょうが匹夫ひっぷ の勇で将器の行動とは受け取れない。
親類の焼香が終わった。
林佐渡につづいて、自分の名を呼ばれたとき、政秀はハッとして席を立った。
(大殿! お許しなされませ)
この政秀の育て方に、何か手抜かりがあったような ── そう思うと、香をいただく政秀の目尻にはじっとりと涙がういてゆく。
席へ戻るとまた政秀は瞑目した。
縄帯で父の位牌に香を叩きつけていった信長の映像が、まだしっかりと彼を捕らえて放さない。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ