(これでよかった。これで政秀の顔も立とう・・・・) そう思って、しかし濃姫は我が眼を疑った。信長の服装が、昨夕着て出たままのふだん着であるのに気づいたのだ。肩衣
もつけていなかった。袴もはいている気配はない。 髪はいつものとおりの突っ立ちすぎた茶筅で、根元を真っ紅な平打
で無造作に巻き上げている。眼だけはらんらんと光っていたし、逞しい胸をぐっとおとがいの前へせり出していたが、この服装で父の葬儀に・・・・と、胸をおさえて、さらに濃姫は愕然
として息をつめた。 左手に、愛用の四尺近い備前光忠をひっさげて傲然
と歩き出した信長の帯が、いつか昨日と変わっている。 帯だけではなくて腰にぐるぐる巻いているのは藁のしんでないあげたみご
縄 だった。 「あっ!」
と、政秀もそれを見つけた。が、すでに信長は霊前へ歩き出しているので声すらかける機会はなかった。 「なんということ、藁の縄をしめてござるぞ」 林佐渡が舌打ちすると、 「・・・・・」 この奇矯な子を産んだ土田御前も、思わず上半身を立ててゆく。 「何ということだ!」 「裾
を見よ。泥がついている」 「やはり相撲か」 「なんともかとも・・・・」 父の葬儀に遅参するさえ、あり得ない事なのに、さんざん待たせたあげくの服装が、これではあまりに変わりすぎている。 会下僧はむろんのこと、導師の眼もじろりと信長に注がれた。だが当の信長はうそぶくように前面を睨んだまま、あわてて通路を開く人々の間を真っ直ぐに霊前へ進んだ。 天蓋
と、それに映えてきらめく灯と、四百に近い僧侶と、堂に満る香華と・・・・それらの一切が、傍若
無人 な一人の若者の為に、その尊厳さをふみにじられた感じであった。 やがて信長は位牌
の前に立ち止まった。 と、同時にぴたりと私語が止まったのはこの若者が、引っさげて来た太刀のこじりで、トンと床をつき鳴らしたからであった。 その音に急き立てられて、五味新蔵はあわてて焼香の順序書きを読み上げた。 「ご焼香、上総介様!」 ひたたび読経が始まった。 しかし信長は坐りもしなければ頭も下げず、傲然として、太刀を左手で床に立てたまま位牌を睨んで突っ立っている。 万松院桃岩道見大禅定門。 もはや人々は、その奇矯さに魅
されて、息をのんで見守るばかり。と、信長はぐっと右手をさしのべて掌いっぱいあに香をつかんだ。 「あ ──」 人々は期せずして声なき声を発しあった。
見よ! 信長は掌いっぱいにつかんだ香をいきなりパッと父の位牌に投げつけたのだ。 香はあたりいっぱいに飛び散った。さすがに導師の和尚はまばたきもしなかったが、左右前列の僧の中にはあわてて眼を拭く者さえあった。 「狂われた!
これはたしかに狂われた・・・・」 林佐渡がそうつぶやいたとき、信長はくるりと霊前からきびすをかえして、こんどは堂にあふれた人々をハッタと睨んで立っていた。
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