〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/07 (土) 花 供 養 (八)

「ご焼香でござるぞ! 殿は・・・・」
林佐渡がまた言いかけると、
「あいや、しばらく」
平手政秀はおどけたようすで手を振った。
「ご家督の殿がご遅参ちさん なされたからというて、まさかご次男からご焼香も相なるまい。いましばらく」
身ぶりは円満酒落しゃらく だったが、唇も頬も土気いろで、額には鉛色の汗がじっとりと光っていた。
「お父君を送る一生一度のご儀式、いあかに大胆不敵な殿といえど、まさかお忘れにもなりますまいで」
「平手どの!」
「はい」
「いや・・・・まだいうまい。では今しばらく」
濃姫は、耳をおおいたくなって来た。読経の切れ目を縫う私語はいずれも信長への反感と嘲笑で、誰一人として同情の声はなかった。
これが次男信行の遅参なら、途中で変事があったのではと必ず言うに違いない。
(このような反感の中で、いったい殿はどうして一族をまとめてゆくのか・・・・)
監禁、暗殺に凶事がなくとも、信長の前途は真っ黒に思われる。
「また川干しでもしてござるかな」
相撲すもう かも知れぬて」
「いや、踊りでござろうよ。花見踊りの季節でござる」
「それにしても大した殿でござるぞ。大殿のお葬儀を忘れるとはなあ」
そうした私語の後でついに本家の織田彦五郎の声が聞こえた。
「年寄りどもにたずねるが、このままずっと待つつもりか」
「はい、いましばらく」 と、政秀だった。
「前代未聞じゃな政秀」
「恐れ入りました」
「いや、そなたが恐れ入るにはあたらぬ。が、念のために聞きおきたい。このまま信長どのが現われなんだら、今日の葬儀は中止する気か」
柔らかくふくんだ声で問いかけられて、さすがの政秀もしどろもどろだった。
「いや、そのような・・・・」
「では、いましばらく待って来なんだ時はどうするのだ」
「はい。その時には・・・・」
「信行どのから焼香差し支えないと申すのか。それとも信行どのの焼香はまかりならぬか」
「そのようなことは・・・・ござりませぬ。なにぶんにもおいましばらく」
「平手どの」 と、今度は佐渡のこえであった。
「お間に合わぬで事を済ましたとて、われらの不忠にはなるまいかと存ずるが」
「いかにも」
「ご親類への遠慮もあること。これ以上待つはいかがなものであろうかの」
と、その時だった。いままで、彦五郎と政秀の会話に吸い寄せられて、誰も気づかずだった仏殿の入り口へすっと一つの影がさした。
「あっ!」 と末席の一人が叫んだ。
「殿! 殿でござる。殿がお見えなされました」
「なにッ殿が・・・・」
濃姫は我を忘れて顔をあげた。
いや、濃姫だけではない、遺族も会下えげ そう も、いいあわせたように入り口を見やった。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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