「ご焼香でござるぞ! 殿は・・・・」 林佐渡がまた言いかけると、 「あいや、しばらく」 平手政秀はおどけたようすで手を振った。 「ご家督の殿がご遅参
なされたからというて、まさかご次男からご焼香も相なるまい。いましばらく」 身ぶりは円満酒落
だったが、唇も頬も土気いろで、額には鉛色の汗がじっとりと光っていた。 「お父君を送る一生一度のご儀式、いあかに大胆不敵な殿といえど、まさかお忘れにもなりますまいで」 「平手どの!」 「はい」 「いや・・・・まだいうまい。では今しばらく」 濃姫は、耳をおおいたくなって来た。読経の切れ目を縫う私語はいずれも信長への反感と嘲笑で、誰一人として同情の声はなかった。 これが次男信行の遅参なら、途中で変事があったのではと必ず言うに違いない。 (このような反感の中で、いったい殿はどうして一族をまとめてゆくのか・・・・) 監禁、暗殺に凶事がなくとも、信長の前途は真っ黒に思われる。 「また川干しでもしてござるかな」 「相撲
かも知れぬて」 「いや、踊りでござろうよ。花見踊りの季節でござる」 「それにしても大した殿でござるぞ。大殿のお葬儀を忘れるとはなあ」 そうした私語の後でついに本家の織田彦五郎の声が聞こえた。 「年寄りどもにたずねるが、このままずっと待つつもりか」 「はい、いましばらく」
と、政秀だった。 「前代未聞じゃな政秀」 「恐れ入りました」 「いや、そなたが恐れ入るにはあたらぬ。が、念のために聞きおきたい。このまま信長どのが現われなんだら、今日の葬儀は中止する気か」 柔らかくふくんだ声で問いかけられて、さすがの政秀もしどろもどろだった。 「いや、そのような・・・・」 「では、いましばらく待って来なんだ時はどうするのだ」 「はい。その時には・・・・」 「信行どのから焼香差し支えないと申すのか。それとも信行どのの焼香はまかりならぬか」 「そのようなことは・・・・ござりませぬ。なにぶんにもおいましばらく」 「平手どの」
と、今度は佐渡のこえであった。 「お間に合わぬで事を済ましたとて、われらの不忠にはなるまいかと存ずるが」 「いかにも」 「ご親類への遠慮もあること。これ以上待つはいかがなものであろうかの」 と、その時だった。いままで、彦五郎と政秀の会話に吸い寄せられて、誰も気づかずだった仏殿の入り口へすっと一つの影がさした。 「あっ!」
と末席の一人が叫んだ。 「殿! 殿でござる。殿がお見えなされました」 「なにッ殿が・・・・」 濃姫は我を忘れて顔をあげた。 いや、濃姫だけではない、遺族も会下
僧 も、いいあわせたように入り口を見やった。 |