濃姫は気が気でなかった。すでに読経が始まっているのに、依然として喪主信長の席は空いたままなのだ。 (何か途中で変事でも・・・・?) と、思うと、折が折りだけに心は震えた。 平手政秀が小腰をかがめて、信行の後ろから自分の方へ近づいて来るのを見て、濃姫はまたドキリと激しく動悸を感じた。 「姫、殿は?」 政秀は、あたりをはばかるように耳もとへ口を寄せ、 「城を出るときご一緒では?」 と早口にたずねた。姫はとっさに返事が出来なかった。 「殿は・・・・昨夕・・・・お出ましのまま」 政秀の顔からサッと一度に血の気が引いた。が、さすがに老巧な政秀、次の問いは口には出さず、二つ三つ、軽くうなずいてそのまま自席へもどってゆく。 姫はカーッと頭が熱くなった。 政秀の言葉で信長が家老たちと一緒でなかったことを知ると同時に、想像は悲しく凶事へ飛ぶのである。 斬られたか?
それともどこかへ監禁されたか? 争いに慣れ切った人々の間では、そうしたことは日常の茶飯事
だった。 もともと信長の平素は変わりすぎている。父の葬儀にも列席しないで ── そんな非難を浴びせながら裏から刺客を躍らせる・・・・ 唯求
菩提 の読経はすすんだ。 案の如く人々の眼は空席へそそがれだす。姫は、もはや顔をあげる勇気もなかった。 「──
おれを出せ! 出さぬかッ、うぬら」 格子
の中でわめく信長の幻
がちらついたり、草をつかんでこときれている血まみれのむくろが眼先をかすめたりする。 やがて僧侶の間でも喪主の不在に気づいた様子で、読経の調子が緩慢
になって来た。 つと、一人の染衣が立ち上がって、導師に何か耳打ちし、それからつかつかと立って、主席家老の林佐渡に、 「ご焼香を・・・・」 と、告げてから、 「喪主の殿はいかがなされました?
梵唄 中断いたしまするが」 林佐渡は苦々しげに顔をゆがめて、次席の政秀をかえりみた。 「まだ見えられぬか、まさか父君のご焼香をお忘れでもござるまいに」 平手政秀は唇をかんで数珠をまさぐった。 「もはや見えられるでござろう」 「お身が育てられた殿、よもや間違いはござるまいが、葬儀半ばで読経が切れてはおかしなもの・・・・」 政秀は答える代わりに、首をめぐらして境内を見たり、客殿をながめたりした。 その視線に応
えて、ばたばたと二、三人が立ち上がった。 しかしその誰もが席へ戻らぬうちに読経の声はついにとぎれた。 また染衣が家老席へ走って来た。 焼香の順序書きをもったまま五味新蔵は救いを求めるように林佐渡と平手政秀を見比べている。 林佐渡はつと後ろ向きに片膝立てて、 「ご家督の殿はいずれにおわすや?」 憤怒をこめた眼
ざしで、じろりと一座を睨みまわした。 |