権六がふところからうやうやしくふくさ包みを取り出すと、信長の眼は細くなった。 「そうか、遺言か。これへ持て」 声はひどくおだやかで、ふわりと権六を包むようなものがあった。 権六は逡巡
した。たぶん大声でわめき返すと思っていたのに、これはなた何としたことか。 むろん遺言は偽書
であった。信秀がいうはずもなく、岩室殿が書き留めるはずもなかった。したがって権六はそれを読み上げさえすればよかったのだ・・・・ 信長に対する反感と危惧
とは、それによって十分に効果を持つに違いない。信長がその点で激怒すればするほど目的は達せられる。 「これは偽書じゃ!」 とわめいたらいっそう人々は真偽を疑いだしてゆくであろう。それほど信長は家中の信頼を失っている
── と、権六は考えていた。 「そうか。遺書が・・・・それはよかった」 信長はまた言った。 「わしがみんなに読み聞かそう、これへ持て」 また穏やかに促
されて権六の膝は思わず立った。相手があまりに穏やかで、否む機会がなかったのだ。 信長は権六の手から遺書を受け取ると、二度ほど額にそれをあてて、そのまま自分のふところへしまいこんだ。 「遺書を開く前に最期のありさまを聞きたいが、信行、おぬしは息のあるうちに父に会うたか」 「会いました」
と信行は答えた。 「それがしが駆けつけたる時は、まだ意識もたしかにて・・・・」 「フーム」 あとの言葉をてで制して、 「するとおぬしは不幸な子じゃのう」 「これはおかしなことを・・・・なぜでござる?」 「意識もたしか、息のあるうちに、なぜ父上をここへ移して、ご介抱
せなんだか。おぬしは、先ほど何と申した? 父上は岩室と同衾
中にこときれた・・・・世の笑いものになってもよいかと、わしをなじった。忘れまい」 「それは・・・・それは申しましたが」 「黙れッ信行! おぬしは兄を愚弄
する気か。同衾中にこときれたのが事実なら止むを得まい。だが、意識がおわさばそのような笑いを父に取らせるには及ぶまい。いずれが事実じゃ、しかと申せ」 「恐れながら・・・・」 たまりかねて柴田権六が口を出すと、信長は笑いながら手を振った。 「そちの忠義はわかっている。控えておれ。信行ッ!」 「はい」 「この遺書は父の口上を岩室が書き取ったと権六が申したが、おぬしもしかとそう思うか」 「さあ・・・・それは・・・・それがしその場に居合わさず」 「知らぬというのだな。知らぬゆえ信じられぬというのだな。よしッ!
それではこの遺書開いても無駄と分った。おぬしが息のあるうちに父上に会うているのに、おぬしには書かせず、女子供に書かしたのでは信じられぬも無理はない。これは信長が永久に預かりおく。さて、権六!」 「おぬし念のため、もう一度だけたずねおくが」 信長は、そういうと意地悪そうにニヤリと笑って肩を落とした。
|