〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/03 (月) 花 供 養 (三)

権六がふところからうやうやしくふくさ包みを取り出すと、信長の眼は細くなった。
「そうか、遺言か。これへ持て」
声はひどくおだやかで、ふわりと権六を包むようなものがあった。
権六は逡巡しゅんじゅん した。たぶん大声でわめき返すと思っていたのに、これはなた何としたことか。
むろん遺言は偽書ぎしょ であった。信秀がいうはずもなく、岩室殿が書き留めるはずもなかった。したがって権六はそれを読み上げさえすればよかったのだ・・・・

信長に対する反感と危惧きぐ とは、それによって十分に効果を持つに違いない。信長がその点で激怒すればするほど目的は達せられる。
「これは偽書じゃ!」 とわめいたらいっそう人々は真偽を疑いだしてゆくであろう。それほど信長は家中の信頼を失っている ── と、権六は考えていた。
「そうか。遺書が・・・・それはよかった」
信長はまた言った。
「わしがみんなに読み聞かそう、これへ持て」
また穏やかにうなが されて権六の膝は思わず立った。相手があまりに穏やかで、否む機会がなかったのだ。
信長は権六の手から遺書を受け取ると、二度ほど額にそれをあてて、そのまま自分のふところへしまいこんだ。
「遺書を開く前に最期のありさまを聞きたいが、信行、おぬしは息のあるうちに父に会うたか」
「会いました」 と信行は答えた。
「それがしが駆けつけたる時は、まだ意識もたしかにて・・・・」
「フーム」
あとの言葉をてで制して、
「するとおぬしは不幸な子じゃのう」
「これはおかしなことを・・・・なぜでござる?」
「意識もたしか、息のあるうちに、なぜ父上をここへ移して、ご介抱かいほう せなんだか。おぬしは、先ほど何と申した? 父上は岩室と同衾どうきん 中にこときれた・・・・世の笑いものになってもよいかと、わしをなじった。忘れまい」
「それは・・・・それは申しましたが」
「黙れッ信行! おぬしは兄を愚弄ぐろう する気か。同衾中にこときれたのが事実なら止むを得まい。だが、意識がおわさばそのような笑いを父に取らせるには及ぶまい。いずれが事実じゃ、しかと申せ」
「恐れながら・・・・」
たまりかねて柴田権六が口を出すと、信長は笑いながら手を振った。
「そちの忠義はわかっている。控えておれ。信行ッ!」
「はい」
「この遺書は父の口上を岩室が書き取ったと権六が申したが、おぬしもしかとそう思うか」
「さあ・・・・それは・・・・それがしその場に居合わさず」
「知らぬというのだな。知らぬゆえ信じられぬというのだな。よしッ! それではこの遺書開いても無駄と分った。おぬしが息のあるうちに父上に会うているのに、おぬしには書かせず、女子供に書かしたのでは信じられぬも無理はない。これは信長が永久に預かりおく。さて、権六!」
「おぬし念のため、もう一度だけたずねおくが」
信長は、そういうと意地悪そうにニヤリと笑って肩を落とした。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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