〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/01 (日) 往 く 雁 戻 る 雁 (十四)

新八郎が馬から降りたので、武士たちの足も自然に止まった。なにか打ち合わせてあったとみえ、おいせがれ も新八郎一人を残して、どんどん川岸を上流へさかのぼる。
むろん橋まで歩くのではあるまい。と、すれば、いずれかへ渡し舟がかくしてあるのだろう。
新八郎はいかにも人を食ったような様子で、馬から降りると、悠々と水面を眺めて放尿した。
「方々、ご苦労でござったな」
ぶるぶるっと下半身を震わして最後の露をはらってから、彼はゆっくりと槍の石突を地面に立てて、
「帰られたらよろしゅう告げられよ」
武士たちはまた顔を見合った。一歩退くかわりに、ぐるりと小さく輪を作った。
新八郎はニヤリと笑って、その輪の中に取り込められた。
みんなが竹千代のあとを追おうとしないのが、新八郎にはうれしかった。恨みは竹千代の身に及ばず、新八郎一人のことで済んでいる。
「かたがたはこのまま戻れぬといわれるか」
「いかにも」 と一人がまた半歩出て来てぐっと槍の穂先をあげた。
「あえて名は名乗らぬ。名乗るべきでもなかろう。おぬしは立派に主命を果たされた」
「はッはッは・・・・」 と新八郎は笑った。笑いながら涙が出そうでたまらなかった。
城は今川の手に取られ、この後の運命も雨か風かわからぬ孤児の家臣であった。その家臣が、流離の悲嘆を、八歳の竹千代に味あわせまいとして、あえて吐いた暴言であった。
それを相手は、
「── 立派に主命を果たされた・・・・」 という。
その言葉が、単純に喜べるほど彼の心には無邪気な童心が生きている。
「はッはッは・・・・いや、よく分った。このまま戻っては各々方おのおのがたの名が立つまい。お望みに任そう」
こんどは相手の槍はいちどにあがった。と同時に、みな一歩 がって、輪はひとりでに大きくなった。
「かかる場合に」 と、新八郎はこれも槍をぴたりと胸に構えながら、
「全力を尽くしてお相手するが、礼儀であろうな」
「いうな、小賢こざか しい!」
「なに、小賢しいと、いま かした奴は誰だ。一歩前へ出よ。おぬしから先に槍を合わそう」
「おれだ!」
さっと穂先を波打たせて、一人の武士が前へ出た。
まだ忠世や忠勝よりも若い、みるからに貧弱な小兵こひょう の若者だった。
「勇ましい奴」 と新八郎はホッと肩を波打たせて、
「しかしおぬし、その構えで、この新八郎が突き伏せられると思ってか」
「いうなッ、勝敗はおれの知ったことではないわ」
「ほほう、勝敗のない戦というのが世間にあるか」
「あるゆえ槍を出している。恥辱を受けたままは戻れぬゆえ、遠慮のう突いて来いッ」
「フーム、すると負ける覚悟でかかって来るのか。なるほど・・・・それもあるかも知れぬな。では往くぞッ」
新八郎の声がぴりりッと冬の空気を破ると、相手はハッと眼をつむった。ジィーンと胸板をつらぬく熱鉄の衝撃を予想して・・・・

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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