〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/05/01 (日) 往 く 雁 戻 る 雁 (十三)

寺の客殿で、人質替えは表面ことなく済まされた。
織田信広を引き取りにやって来た玄蕃允げんばのじょう信平のぶひら勘解由かげゆ 左衛さえ もん 信業のぶなり は、いずれも感情をなくした人のように静かであったが、大久保新八郎は最後まで 丈高たけだか にふるまった。
信平が時候の挨拶をすれば、
「── 冬は寒いもじゃ」 と、突き放すし、竹千代が成長したであろうと言われると、ぷいっとわきを向いて返事をしなかった。
しかし交換を終わって、各自が笠寺を引き揚げるときになったみると、事情はひどく変わってきた。
織田方では竹千代を乗せて来た輿に信広を乗せ、行列らしいものを整えて引き揚げることが出来るのに、松平方では竹千代が信長に贈られた馬一頭あるだけだった。
ここでも竹千代たちが先発した。
新八郎の甥の忠世が竹千代のくつわを取り、先導は倅の忠勝、新八郎は殿しんがり へまわって寺を出た。
が、これでは行列が寂しすぎる。群集は思い思いの批評をはじめた。と、その時になって、織田方から、家士七、八名を警固に付そうと申し出た。
群衆の中に立って、そうした成り行きを竹之内波太郎はニコニコと見やっている。
竹千代の警固はむろんうわべのこと、その実は恥辱ちじょく を与えた新八郎忠俊を、無事に帰すなという肚らしい。新八郎がはたしてそれをどう裁くかと見ていると、
「かたじけない。ではお頼み申そう」
あっさりとうなずいて、言い出した信業がかえって小首をかしげたようだった。
「ここは三河のうちでござれば、先に危険はござらぬ。うしろをよろしく頼み入る」
(気づいているな・・・・)
と波太郎は見てとったが、織田方の武士たちは顔を見合って、そのまま新八郎のあとにつづいた。
真っ先に忠勝、次に竹千代。そしてその次には忠世の乗って来た馬に天野三之助が乗り、阿部コ千代は徒歩になった。少し遅れて新八郎、さらにそのうしろに織田家の武士八人。
竹千代や三之助やコ千代などがいなかったら、名だたる大久保党の三人で、十分織田方の八人に立ち向かえるに違いない。が三人の子供たちがいるために、もし血闘がひらかれたら、いずれが勝つとも決めかねるありさまだった。
「かたがた、ご苦労千万じゃな」
寺の客殿では、あれほど無愛想にふるまっていた新八郎が、わざと歩速をおくらせるようにして、織田方の武士を揶揄やゆ しだしたのはすでに群衆の姿が路傍になくなってかたであった。
織田方の武士はあえて答えない。
参道を出はずれると葉を落としたはん の木に、からす がむれて、灰色の空いっぱいに不吉な声をわめき交わしている。
その下で行列は岡崎への道をとった。まだ雪斎は安祥の城にいるのに、そこは素通りして亡父の城へ迎え入れようとする。これも大久保党の独断だったが・・・・・
やがて一行の目には、矢矧の流れがにぶく浮いて来た。
これを渡れば、すでに岡崎へついたも同様、そこで新八郎はゆっくり馬から降りて織田方を振り返った。
徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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