〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/30 (土) 往 く 雁 戻 る 雁 (十二)

大久保新八郎は土下座といっしょに、
「竹千代さま! 竹千代さま!」
と、大声でわめいた。その声に驚いて輿は止まった。
「大久保のじいでがざる。輿の戸をおあけなされて、お言葉を下され!」
群集が眼を丸くして見ている中で、輿の戸は内から開いた。
そして、いかのも屈託なげな丸い顔が現れた。みなりも改めて信長に贈られたと見え、白あやの小袖にあおい の紋がついていた。
「じいか」
と、小さな唇が動くと、
「は・・・・は・・・・はいッ!」
新八郎は、一年半ぶりに見る竹千代を睨むようにして体だけを地面に伏せた。
「竹千代さま! われらは勝ちましたぞ。お留守中、心を合わせて、誰にも・・・・誰にも・・・・負けはしませなんだぞ」
それだけ言うと、新八郎の顔はみるみる大きくゆがんで、ドッと涙が頬にあふれた。
竹千代のつぶらな眼が、何を感じたのかきりりと大きく見開かれて、刺すように新八郎を見つめている。
竹千代と同じ輿に乗っている阿部コ千代は、武者人形のように堅くなって姿勢を正していた。
「大きゅうなられた・・・・大きゅうなられた・・・・」
「・・・・」
「これで松平家は万々歳じゃ・・・・」
「じい」
「はいッ!」
「涙を拭けよ」
「は・・・・はいッ」
大丈夫だいじょうぶはな、泣かぬものじゃぞ」
「は・・・・は・・・・はいッ」
「信長どのに、馬を貰うて参った。そち引いて来い」
「信長どにに・・・・?」
竹千代はこくりとうなずいて、ぴしりと輿の戸をしめた。
騎乗の武士は二人ともすでに馬をおりtりた。輿はあがった。そしてそのまま山門の中へ運びこまれる。
「お話の馬でござる」
竹千代の馬を引いてきた足軽が、まだ地べたに坐ったまま、茫然としている新八郎に手綱を突きつけた。
新八郎はそれを引ったくるようにして、ギロリとまたあたりを睨み、立ち上がって山門の中へ馬といっしょに消えて行った。
見ていた人は、口々にホッと嘆息して、またガヤガヤと各自の想像を私語しだした。
「なるほど・・・・これはこのはずじゃて」
「どうして、何が?」
「何がといって、戦は織田方の負けじゃっただろうが」
「ははあ」
「負けた方ゆえ、信広さまはあのように粗末に扱われても仕方がないのじゃな」
「そういえばそうじゃ。なるほど、勝った方と負けた方か・・・・」
そうした会話を、群集の一人になった竹之内波太郎は、しずかな表情で聞いていた。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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