〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/27 (水) 枯 れ 野 の 賦 (七)

「さ、愚僧がこのあたりで見張っていて進ぜる。心置きなくお話なさるがよい」
住持は外に立って、母娘に背を向けたまま奥庭を歩きだした。
本多兵八郎の後家も、再びきびしい以前の顔に戻って、次の間へひっそりと向き直る。どちらも母娘の心を察した計らいだった。
「母さま・・・・」
於大の声は たびふるえた。
「安祥の城が落ち、織田信広さま、今川方の手に捕らえられたことご存知か?」
「捕らえられましたか! それはしれは・・・・」
華陽院はまだそのことを知るはずはなかった。
大きく瞳を開いてあたりを見て、
「雪斎禅師さま、自信をもって言い切られましたが・・・・それはそれは」
於大はそのつぶやきを聞きとがめた。
「と、仰せられると、母さまは前もってそのことを・・・・」
「おう、知っていました。それで急に、お方を訪ねる気になりました」
華陽院は静かに答えてふたたびあたりを見まわしながら、
「お方は熱田の竹千代どのへ、なにくれと心をかよ わせていられたそうな。それを久松の殿はご存知か」
と、声をおとした。
「はい、今では、於大の子は、佐渡が子とも仰せられ・・・・」
「それはまたもったいない!このとおり、ばばもお礼を申しまする」
華陽院はうやうやしく数珠をささげて、その手でそのまま涙を押さえた。
いつか切れ長の双眸そうぼう に、しっとり露がわいていたのだ。それを見ると於大も悲しさがこみあげた。
「母さま!」 と抑揚よくよう のない声で呼びかけ、
「信広さま今川方の手におちて、竹千代の身には何の累も及びませぬか」
華陽院は複雑な表情でじっと娘を見返した。
「及んだらば、なんとしまする?」
「ではやっぱり・・・・」
「人質交換と今川方から申し越されて、織田の殿は何となさるか、父子の情ゆえよもやこば みはいたしますまい」
於大の眼はあやしい光を帯びて来た。
華陽院はつとめて冷静をよそおいながら、
「織田の殿がご承知なさると、竹千代は熱田を発たせられましょう」
「行く先は? 母さまお心当たりはございましょうか」
華陽院はうなずく代わりに、ふと視線を庭の住持の背に移して、
木枯こがら しの吹くままに、葉を落としては春を待つ木もたくさんおじゃる。お方はこの尼が、なぜお別れに来たか気がつかれぬか?」
「あ・・・・」 と於大は眼をみはった。
「母さまは駿府へお移りなさると申された・・・・それではそれは竹千代の・・・・」
華陽院は手を上げてあとの言葉をさえぎった。
「熱田におればお方や殿の情を受け、駿府に移ればこの尼の手が届く。どちらにしても竹千代は運強う生まれて来た子と見えまする」
於大は息をのんで母の顔を見つめていった。
はじめて肉親の兄、今は竹之内及六と名乗る藤九朗信近が人質交換のことを言い出した心の底がわかりかけた。
「竹千代が運強い・・・・?」
憑かれたようにつぶやきかえして、こんどは於大があわててあたりを見まわした。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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