〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/27 (水) 枯 れ 野 の 賦 (八)

(あるいはこの母と兄との間には、何か連絡があったのではあるまいか)
兄は交換を条件に織田家から和議を提案させようとしているし、母は駿府へ移ろうといっている。
そうなれば於大の心はどんなに軽くなることか。
華陽院のいうとおり、熱田にあれば母の於大が、駿府へ行けば祖母の手が、密かに竹千代の身に及ぶ。
「母さま!」 と、於大は華陽院の前に両手をついた。
「葉を落として春を待つ枯れ野の木々の心・・・・わかりましてござりまする」
華陽院はうなずいてまた数珠をいただくと、そっと薄く眼を閉じた。
母の心はようやく娘に通じたらしい。しばらくして、
「お方はしあわせじゃ」 とつぶやくように言い出した。
「田原御前はの、産まず ゆえに、お方の苦しみも味わえまいが、歓びもまた知らぬ。岡崎の殿のないあとは、自然に枯れるのを待つばかり。それに引きかえ、お方はまた久松の血筋の中にも生きぬける。不幸と思うてはなりませぬぞえ」
「はい」
「お方やこの身は女の中の仕合せ者じゃ。その身は枯れても、いずれは血筋に春が来まする」
「はい」
「どのようなことがあっても、この仕合せは手離すまい。生まれる児をのう、よい子に育てて下されや」
於大は再び畳に手をついて、しばらく嗚咽おえつ をかみしめた。
何という悲しく強い悟りであろう。
仮借かしゃく ないさいな みのむち の向こうに、次の命の春を見つめて生きてゆく。
それ以外たしかに女の幸福など約束される時世ではなかった。
「お方ばかりではない。忠高が後家もいまは生まれる者を待っている。男だったら、必ずその子に、祖父や父の心を継がしてみせるというてな。あの忠烈な祖父が孫・・・・あの一筋な父が子・・・・男だったらまた平八郎を継ぐであろう。その本多平八郎が、松平竹千代の旗をささげて、戦のない世を作り出す・・・・それが、この尼の楽しい祈り、楽しい夢じゃ」
「わかりました、母さま、於大は決してわが身の不幸はかこちませぬ」
と、そのとき庭の住持がシーッと二人を手で制した。誰かがやって来たのに違いない。
「ああ、奥方さまならばお越しじゃが、いまは寺宝の経文をご覧に入れているところじゃで」
するとここまで聞こえる男の声で、
「竹之内久六、火急に折り入って申し上げたい儀があってまかり出ました。お取次ぎ下され」
声と一緒に老松の下までつかつかとやって来た男の姿を見ると、華陽院はびっくりして立ち上がった。
久六はまだそこに母がいるとは気づいていない。だが、母の直感は、それがわがはら を痛めた藤九朗信近と一眼で知った様子なのだ。
つかつかと縁へ出て来て、小首をかしげて、
「もしやあなたは、水野藤九朗信近では・・・・?」
「えっ?」 と久六は一歩 がってこれも、
「あっ!」 と低く叫んだ。
久六の眼は星、華陽院の眼は朝の光を宿した露のように燃えていた・・・・

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ