(あるいはこの母と兄との間には、何か連絡があったのではあるまいか) 兄は交換を条件に織田家から和議を提案させようとしているし、母は駿府へ移ろうといっている。 そうなれば於大の心はどんなに軽くなることか。 華陽院のいうとおり、熱田にあれば母の於大が、駿府へ行けば祖母の手が、密かに竹千代の身に及ぶ。 「母さま!」
と、於大は華陽院の前に両手をついた。 「葉を落として春を待つ枯れ野の木々の心・・・・わかりましてござりまする」 華陽院はうなずいてまた数珠をいただくと、そっと薄く眼を閉じた。 母の心はようやく娘に通じたらしい。しばらくして、 「お方はしあわせじゃ」
とつぶやくように言い出した。 「田原御前はの、産まず女
ゆえに、お方の苦しみも味わえまいが、歓びもまた知らぬ。岡崎の殿のないあとは、自然に枯れるのを待つばかり。それに引きかえ、お方はまた久松の血筋の中にも生きぬける。不幸と思うてはなりませぬぞえ」 「はい」 「お方やこの身は女の中の仕合せ者じゃ。その身は枯れても、いずれは血筋に春が来まする」 「はい」 「どのようなことがあっても、この仕合せは手離すまい。生まれる児をのう、よい子に育てて下されや」 於大は再び畳に手をついて、しばらく嗚咽
をかみしめた。 何という悲しく強い悟りであろう。 仮借
ない苛
みの鞭
の向こうに、次の命の春を見つめて生きてゆく。 それ以外たしかに女の幸福など約束される時世ではなかった。 「お方ばかりではない。忠高が後家もいまは生まれる者を待っている。男だったら、必ずその子に、祖父や父の心を継がしてみせるというてな。あの忠烈な祖父が孫・・・・あの一筋な父が子・・・・男だったらまた平八郎を継ぐであろう。その本多平八郎が、松平竹千代の旗をささげて、戦のない世を作り出す・・・・それが、この尼の楽しい祈り、楽しい夢じゃ」 「わかりました、母さま、於大は決してわが身の不幸はかこちませぬ」 と、そのとき庭の住持がシーッと二人を手で制した。誰かがやって来たのに違いない。 「ああ、奥方さまならばお越しじゃが、いまは寺宝の経文をご覧に入れているところじゃで」 するとここまで聞こえる男の声で、 「竹之内久六、火急に折り入って申し上げたい儀があってまかり出ました。お取次ぎ下され」 声と一緒に老松の下までつかつかとやって来た男の姿を見ると、華陽院はびっくりして立ち上がった。 久六はまだそこに母がいるとは気づいていない。だが、母の直感は、それがわが胎
を痛めた藤九朗信近と一眼で知った様子なのだ。 つかつかと縁へ出て来て、小首をかしげて、 「もしやあなたは、水野藤九朗信近では・・・・?」 「えっ?」
と久六は一歩下
がってこれも、 「あっ!」 と低く叫んだ。 久六の眼は星、華陽院の眼は朝の光を宿した露のように燃えていた・・・・ |