華陽院は黙って於大の手を取って、縁から中へ抱き上げると、 「母とは呼んで下さるな。俗縁はきれいに断
って、に仏の袖にすがる源応と名づくる尼じゃほどに」 「は・・・はい」 於大は素直にうなずきながら、まだ母の手は離さなかった。 あまりに思いがけない再会で、」いいたいこと、訴えたいこと、聞きたいことが胸いっぱいに詰まってゆく。 「まず・・・・」
と、華陽院は於大をその場に坐らせた。 「久松佐渡守さま奥方に、ご住持のお計らいにて名もなき尼のお目にかかれたこの喜び・・・・」 「於大もうれしゅうございます」 「奥方さま」 「はい」 「わけあって、この尼は近く駿府へ移りまする。それでのう、ゆかりの寺々で、ゆかりの人々の墓に詣でて来ましたぞえ」 於大はうなずいてそっと姿勢を正していった。たとえ世を捨てた尼とはいえ、いま織田方と合戦している松平家につながる母。その母とこうしてここで落ち合っては、良人はむろん禅師の身にまでどのような迷惑が及んで来るかわからなかった。 「刈谷へ立ち寄って、楞厳
寺 も訪れました・・・・」 「はい」 「奥方のお納めなされた数々の品・・・・」 言いかけると。華陽院の声はさすがにつまり、はげしい咳
が語尾をうばった。 「そのあとでは、椎の木屋敷のわきを通り、それから緒川の乾坤院へ詣で」 「母さま・・・・」 たまりかねてまた於大は声をかけた。自分よりもはるかに不幸な流転
のあとを、母はいみじくもめぐって来たらしい。 それにしても駿府へ移るというのはなぜであろうか? 移されるのか? 移って行くのか? 於大はそれを聞こうとして、この客殿にもう一人、母の従者らしい女のいるのに気がついた。 女は端近
にきちんと坐って、母娘
の方を見るよりも、近づく人を警戒している姿勢であった。 於大の視線から華陽院もそれに気づいた。 「そうそう、奥方は上村新六郎の娘小夜
を覚えておいでなされてか」 「あ、小夜・・・・小夜であったか」 声をかけられて女ははじめて正しく於大の方へ向き直った。 「お屋敷さま、おなつかしゅうござりまする」 「おお、そなたもみごもって・・・・」 「はい、お屋敷さまが岡崎を発
たれて間もなく、本多忠高がもとへ嫁ぎ、今では後家にござりまする」 「なに、後家と・・・・? では忠高は・・・・」 言いかけると、華陽院はふたたび軽く手を振った。 「戦というものは、女子
にとっても悲しいもの。その話はもうしてたもるな」 小夜は 「はい」 と答えて、これもすでに臨月近いふくらみをそっと袖でかくしてゆく。 於大はまたはげしい胎児の動きを感じて思わず唇をかみしめた。 |