〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/26 (火) 雪 月 花 (六)

濃姫がけわしい眼をして信長を見つめていると、
「若でござる。信長さまでござる」
と、政秀がささやいた。
濃姫の表情に、さっと狼狽ろうばい の色が動いた。体を少し斜めに引いて、驚きと警戒とが思わず全身ににじんでいった。
「はっはっは」 と信長は笑った。
「おぬしの体には羞恥しゅうち が見えぬ。この信長の寝首をかきに参って、はら の底を見破られたような眼の色じゃ」
「これっ若! お言葉が・・・・」
と、政秀がたしなめたが、そんなことで言葉をつつしむ信長ではなかった。信長はぐいっとひとひざすすめて、
「おぬに、この信長のもり が一生出来るか?」
濃姫はその眼をきっと見返して、
「濃姫は子守に来たのではございませぬ」
と、言い返した。
「子守でのうて何しに来たのじゃ。ままごとに参ったのか」
「信長さまの正室に」
小賢こざか しいぞ。正室とは何をするのじゃ」
「城の奥の支配一切、他人に手は焼かせませぬ」
「ほほう。これは大した度胸じゃ」
信長はニヤリと笑って、
「年を食ってござるだけにいうことが凝っている」
「これ若ッ!」 と政秀がたしなめたが、信長は毒舌をやめなかった。
「よくよく親父にいいつけられて来たと見える。が、奥はおぬしの思いのままになるであろうが、この信長はちと違うぞ」
濃姫の眼にはうっすらと涙がにじんだ。だが、これもさうがに道三が、身内もつkrずにこの城へ送り込んでくる姫ほどあって、負けてはいなかった。
「そのこともよく父からうけたまわっておりまsyる」
「どううけたまわった?それを聞こう」
「なみなみならぬうつけ者ゆえ、そなたとはよい相手であろうとうけたまわりました」
「なにッ」
きらりと鋭く信長の眼がすさんだ。
「するとおぬしもうつけ者かッ。おれに負けぬうつけ者か」
「はい、うつけ者同士、美濃と尾張の」
「わッはッは・・・・」
突然信長は体をゆすって笑い出した。
いつの間にか大広間には家臣がずらりと居流れて、新しい姫を迎える準備がととのうている。
信長の生母の土田御前が、
「お着替えを・・・・」 と信長の耳に口を当ててささやくと、信長ははげしく首を振った。
「衣裳が婚礼するのではない。うつけ者にはうつけ者の作法がある」
「でもそれではあまりに・・・・」
「お構い下さるな。これでよいのだ。用意がよくば盃を持てッ」
土田御前は悲しげに首を振って自分の席へもどってゆき、平手政秀の眼くばせで、銚子ちょうし をささげた二人の少女が、まだキラキラと目を光らしている花嫁の前にすすんだ。
「いざお盃を・・・・」
その声で、居並ぶ家臣がシーンと頭を下げたとき、
「待てッ!」 と、信長はまた大声をあげて手を振った。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
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