-

〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part Z』 〜 〜

2011/04/25 (月) 孤 囚 の 母 (十二)

涼やかな竹千代の眼であった。その眼がちらりと於大を見上げた瞬間、金色に落日の影が映った。
どきりとするほで父の水野忠政に似た面輪おもわ 。わが身にふりかかった苦難も知らず、明日に脅えることも知らない。いやそれよりも、自分の前に全身をふるわして、わが母が立っていることすら知らずに、竹千代はすぐまた視線を手元におとちてゆくのである。
信長はそうした母と子の様子を、いたずらっぽい眼差しでちかりちかりとながめていたが、突然、
「竹千代」 と呼びかけた。
「なんじゃ」
と、竹千代は顔もあげない。
「おぬしはおれが好きかきらいか」
「まだわからぬ」
「なるほどな。だが、おぬし、おれが誰かを知っていまい」
「知っている」
「なに、知っている・・・・いうてみろ
「織田の曹司そうし じゃ。信長どのじゃ」
「ウーム」 と、信長はうなって於大を見やった。於大に聞かせようとしての対話らしい。
「竹千代」
「なんじゃ」
「おぬしは駿府へ行くはずだったのに、なぜこの熱田へ着いたか知っているか」
「知っている」
「おぬし、もし熱田で斬られることになったら何とする」
竹千代はふと黙った。だだ、その手の動きは まなかった。
「おれはな・・・・この信長は、おぬしが弟のような気がするのだが、それでも嫌いか」
竹千代が黙っているので、横から天野三之助がちょっとひざを指でつついた。
「なにをする。三助」
「ご返事をなされませ」
「いやじゃ、竹千代は嘘はきらいじゃ」
「ハッハッハッ」 と信長は笑った。
「嘘は嫌いだというところをみると、まだわからぬといったのは、あれはうそだな」
「うそではない。信長はうつけ者じゃとみんなが言うゆえ、考えているところじゃ」
「うつけ者は、ぬけぬけと申したわ、この小倅め」
「うつけ者なら大嫌いじゃ」
「でなかったら」
「兄弟になってやってもよい。なあ三之助」
こんどは安部コ千代がちくりと指でひざを突いた。
竹千代は折り紙を終わった。ふっと口もとに微笑を浮かべ、眼の前にかざしてみて、
「これを信長どのに進ぜようか」
「うん、くれい」
竹千代はこくりとうなずいて紙雛を渡した。
「これはずいぶんきれいな羽織を着ているの。どこの大将じゃ」
「そんな大将は弱いものじゃ。紙だから」
「そうか。信長はこれと同じ羽織を作らせて着てみようか」
「どうして?」
「強すぎて困っているからな」
「なぜ強い?」
「ハッハッハッ、困らせるの。信長はな、強く生まれついて困っているのだ。生まれつきだ」
すると、竹千代は合点がいったらしくこくりとうなずいて、それからすーっと立つと、くるりと前をまくりあげた。小便をこらえていたらしい。
「ごめん」 といって於大の横のくつぬぎ石の端にションションションションと音をたてていばりを放った。

徳川家康 (二) 著:山岡荘八 発行所:講談社 ヨリ
Next