於大は信長のさっきの一語がきがかりだった。天王社の祭神にわが子をあらからせたくて来たのか、と問われた一語である。 そのわが子とは竹千代を指したのであろうか。それとも、これから産
まれる久松佐渡守が子供をいうのであろうか? とにかく、熊屋敷で、いきなり舞を見せられたときから、信長の吉法師は異常だと思った。いつも相手に息をつかせぬふしぎな鋭さを持っている。 この春の初陣
もひどく変わったものであったと良人に聞かされた。初陣といってもまだ十四歳、父信秀の考えでは元服の式のつづきのつもりであったらしい。 紅
錦 の頭巾
、羽織、馬鎧 というきらびやかな装いで、今川勢のこもる三河の吉良
大浜 へ出かけ、敵に一矢射させてそのまま引き揚げさせるつもりであった。ところが信長は、大浜に乗り込むと、いきなりあたりを焼き払い、そのまま引き揚げでもすることか、炎をながめて悠々と敵前に野宿して戻って来た。 敵は火災に気をのまれ、どんな備えがあるのかと怖れをなして、この少年のなすがままに任せたという。 面差しは岡崎城の松平広忠に似ていたが、その神経はまるで違った、羽ばたく猛鳥に通うものを持っていながら、しかも内にはこぼれそうな情をたたえ・・・・と於大は見ている。 その信長の袖にすがって竹千代の起死回生をはかろうというのが於大の目算だったが、しかしこの猛鳥、まかり間違うと何をしでかすかわからぬ危険さを持っている。 於大は城に通された。 以前に柳の丸といわれた付
曲輪 で、そこに信秀は、この城主とはおよ似つかぬ東山
風 の雅趣
を採り入れた書院作りの居室を建てて与えていた。 「お許は熊屋敷でこの信長をだましたな」 於大が入ってゆくと、信長は挨拶よりも先にいって、脇息
を股の間に抱え込んで頬杖をついた。それから近侍に、 「みなは下
がれ」 と乱暴に命じた。 「お許は熊の若宮が身内でのうて、水野下野が妹御、以前の松平広忠の室ではないか」 「恐れ入りました」 と、於大はいった。よく光る眼であったが、切れ長なその眼の奥に滴
る情愛の色の濃さが頼りであった。 「その節は、波太郎さまご座興とぞんじましたれば、そのままにいたしました」 「座興か・・・・」 と信長は十四の若者とは思えぬ深さで微笑した。 「人生すべてこれ座興かも知れぬ。ところでお許はこんどわしに何を土産
に持って参った?」 「はい、母のこころ・・・・それ一つでござりまする」 「よし、くれい!」 いきなりパッと片手を開いて突きつけられて・・・・於大はひと膝のり出した。必死だった。良人にかくしてこの人にすがるよりほか、竹千代を救う道はありそうに思えない。 「差し上げまする。お受け取りを・・・・」 じっとすがる眼をしてみつめてゆくと、於大の双眼は見る間に涙でいっぱいになっていった。 「差し上げまする。母のこころ・・・・母のこころ」 はげしい嗚咽
がこみあげた。肩が波打ち、声がもつれ、やがて涙は音をたてて畳に落ちた。 |